「靖国参拝」への批判…定式化された、ある種の儀礼
靖国の問題も特定の国から兎角難癖を言われることのひとつですが、他国との関係うんぬんではなく、日本には国立墓地がないから靖国の位置付けはたいへん重要であるという認識でまず考えるべきだと思います。
英霊というふうに見るのではなく、まずは単純に一種のお墓であるという認識を共有する。そもそも亡くなった人の墓にお参りをすることに他国がガタガタ言うということ自体がおかしいという、それぐらいの感覚でいればいいのです。その上でのお詣りです。
一部の国がガタガタ言ってくるのは、定式化された、ある種の儀礼みたいなものです。それをいちいち受けて騒いでいるような肚ではうまくいくはずがない。いくらガタガタ言われようが、他の国はわかっている、ということでいいと思います。
戦で散っていかれたご先祖さまが亡くなられたら、あそこに行くという戊辰戦争以来の日本の伝統がある、死んだ人たちのことについて文句を言うのは最も卑劣なことである、そういう発想で、言いたいだけ言わせておけばいいんです。
【矢作】1985年に社会党の田辺誠書記長が中華人民共和国まで行って、戦犯を合祀している靖国への首相参拝を許していいのか、などと焚き付けたのが靖国問題といわれるものの発端です。
中共(中華人民共和国で使われている中国共産党の略称)政府は、最初は相手にしなかったのですが、しつこく言うものだから、これは戦略的に使えそうだと思ったわけですね。
それまで、当然ながら問題はなかった。国会において昭和28年の7月23日衆議院において遺族等援護法が全会一致で議決され、8月6日参議院でも同様可決され、改正されています。東京裁判で有罪とされたすべての人たちは日本の国内法においては罪人とみなさない、と議決されました。これは国民の総意であって、戦犯問題というものはとうの昔に終わっている、ということです。
終わっているにもかかわらず、それを利用したのが社会党でした。民主主義国では支持されてない共産主義あるいはその途上の社会主義の推進団体、つまり、本来的に国家を壊そうとする人たちが公に国政で一定の力を得られるのは日本の困ったところのひとつです。
自分の体のなかを見て、がんがあるね、と言いながら、それを大事に育てているようなものです。国も生命体ですからこれは病気です。
靖国が政治問題化されてしまったので、毎年、春と秋の例大祭の時には勅使を送っておられますが、天皇陛下は直接の参拝をおやめになりました。言ってしまえば、この一事をもって、日本国民としては迷う必要なく、社会党から始まって、この騒動に加担した人たちを内乱罪で処罰してしまうことも可能だったのです。
右・左という言い方もおかしいんでしょうけれども、現状認識ができていないために国を誤るという意味においては右も左もありません。左は論外として、軸は愛国者であっても、なにかひいきの引き倒しみたいなことをして間違った方向に進めば結果として愛国ではありませんよね。
心根では自分の国が大好きであると思っていても、それを発展させて進化させようとして行くべき道を間違え、180度回転して逆になっているということがままあります。今の愛国者には心してほしいですね。
現実的な解決として必要だと思うのは、一人ひとりが大御宝としての心(自分が日本国という家の一員として自覚を持ち、本気で国や人々のことを考える心)を持つ、ということです。