インフレ、円安の影響が甚大となり、「貯蓄」から「運用」の時代へと過渡期に突入しつつある日本。そんな日本の経済を動かす「株式会社」の社会的機能と問題点を、鋭い視点で浮き彫りにする書籍『会社法は誰のためにあるのか-人間復興の会社法理』 (上村達男著、岩波書店)を日本経済新聞元編集委員、元論説委員の末村篤がレビューする。

「株式会社」の構造上の問題に、メスを入れる本書

本書を読んだ第一印象は、現代の『株式会社亡国論』(高橋亀吉著、1930年)である。

 

『近代株式会社と私有財産』(バーリ&ミ-ンズ著)と同時代に出版された同書で、高橋亀吉は無責任な経営者と貪欲な株主に食い物にされる株式会社の堕落を告発し、松永安左衛門の言葉″株主は資本の所有者ではあっても、会社そのものの所有者ではない”を引用して株主主権論を否定。「配当の増額や役員の選任を要求した株主は一定期間株式の売却を禁じるべきだ」と主張した。高橋亀吉は優れたジャ-ナリス トであり、第一級の在野の経済学者であった。

 

本書で展開される会社論は上村ワ-ルドの理念型である一方で、現実に生起している株式会社の支配・統治を巡る争いに関する俗論、及び、米国直輸入の会社法、会社理論の受け売りの域を出ない専門家と称する学者の主張に対する歯に衣着せぬ批判は、優れた学者であると同時に、優れたジャ-ナリストの資質の表れであり、上村ワ-ルドの株式会社像の輪郭を、際立たせる効果を発揮している。

時代や国によって変化しつづける「株式会社」像

もう一つの重要な視点は、株式会社の多様性に関する所論である。

 

まず、株式会社の使命(目的)は利潤追求(株主価値最大化)ではなく、定款に定める事業目的の遂行による社会的使命の達成であると述べられている。株式会社(経営)の評価基準として利益(株価)の数値一辺倒ではない、会社それぞれの事業目的の達成度合いという価値観を示している。

 

取引所は株式会社になっても、公正な価格形成を実現する市場機能の提供という公益こそが第一義的使命であることは変わらず、利潤は劣後する経営課題に過ぎないということだろう。株式会社は自立して存続するために利益を必要とするが、それが全てでも、最優先事項でもないということだ。

 

株式会社を利益追求マシ-ンに見立てる通説は自明の理ではない。戦後日本の株式会社(上場会社)が株式を相互に持ち合い株主権を相殺することで、経営者と従業員が占有する擬似共同体化したのは行き過ぎだったが、1980年代以降の米国の株式会社が専ら株主価値最大化を競う金融商品と化したのも行き過ぎだった。国や時代によって、国民の株式会社観も社会の株式会社像も異なり、変化するものなのである。

いまこそ、株式会社の原点への回帰が必要

この論点は昨今の資本主義論(「新しい資本主義」もその一つ)に一石を投じる。英・蘭東印度会社を嚆矢とする近代株式会社は、近代市民社会の成立と平仄を揃える資本主義の中核組織であり、資本主義400年の歴史は株式会社の誤用、濫用、悪用の歴史だったと言って過言ではない。

 

資本主義の爛熟と行き詰まりは、株式会社の強欲と暴走の果てと一対の現象と言える。しかし、株式会社の多様性を認め、国と時代とともに変容を遂げて来た株式会社の歴史を振り返れば、強欲礼賛論、強欲宿命論に普遍性はない。

 

歴史を顧みない株式会社観と株式会社像を相対化し、人間が産み出した株式会社を人間の論理に基づく社会的存在として再構築することは人類共通の課題である。欧米先進国から政治、経済、社会制度を学び続けた比較法研究の宝庫である日本は、その課題実践の先頭に立つ資格と義務がある、という著者の志に共感する。

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