センター試験当日、晴香は緊張を和らげるために、感謝の気持ちを思い浮かべていた。「あの塾に出会えたから…」10ヶ月前、村野と出会った頃のことを思い出していた…。※本連載はDIET STUDY塾長の名川 祐人氏の著書『ゼロからMARCH 10ヶ月で人生を変えたい受験生たちへ』から一部を抜粋しています。

「そんな調子で、大学に合格できると思ってるの?」

10ヶ月前――3月下旬。

 

「すごい人の数ね。みんなお花見に来たのかしら、楽しそうね」

 

晴香は、母の百合子(ゆりこ)と一緒に吉祥寺の街を歩いていた。今年は井の頭公園の桜の開花が例年よりも早いらしく、駅前にはたくさんの人がいて、確かに賑やかだった。

 

「お花見か。人混みの中で桜なんか見て、何が楽しいんだろうね」

 

晴香は、わざとぶっきらぼうな返答をした。晴香には周りを行き交う人々が、なんの悩みもない能天気な人間に見えた。

 

2人は「ダイエットスタディ」という、大学受験塾の個別説明会に向かっているところだった。高3になるこの春、晴香は本格的な受験モードに入るために、新しい塾を探していたのだ。これから行く塾は、百合子がインターネットで見つけた無名の塾だった。だが正直、晴香はあまり気乗りしていなかった。聞いたこともない名前の塾がイマイチ信用できなかったのと、塾の説明会に、いい思い出がなかったからだ。

 

*   *   *

 

晴香の通う荻窪西高校は、偏差値51の中堅都立高校だった。晴香にとっては志望校に落ち、不本意ながら通うことになった高校である。入学当初は、校内で成績上位を維持すると豪語していた晴香だったが、ダンス部に入部すると、たちまち勉強そっちのけで熱中することとなり、校内テストでは下から30番以内が指定席になった。そのため内申点は低く、指定校推薦をもらえるような可能性も全くなかった。

 

そんな晴香が、「お母さん、塾に行きたい」と百合子に言ってきたのは、つい最近のことだった。部活の仲間もほとんどが塾に通いだし、さすがに焦りを感じてきたのだ。

 

「塾ってあなた、部活はどうするの?」

 

「6月の引退まで続けるよ」

 

「そんな調子で、大学に合格できると思ってるの?」

 

「大丈夫だよ。みんな部活続けながら塾に行くって言ってるし」

 

「でも今のあなたの学力は、ダンス部のみんなよりも低いでしょ! 両立は無理じゃない?」

 

「ああ、うるさいなぁ。だから、これから頑張ろうとしてるんじゃん!」

 

こうなると晴香は、こちらの言う事に聞く耳を持たないのを、百合子はよく知っていた。昔から誰に似たのか負けず嫌いで、言いだしたら聞かない性格なのである。それに、自分から受験勉強をしたいと言ってきたことが百合子は少し嬉しくもあったので、晴香の申し出を聞き入れることにした。

 

かくして2人は塾を探し始めた。まず候補に挙がったのは、兄が以前通っていた大手予備校だったが、晴香の学校からは遠く、通塾に時間がかかりそうだったため断念した。しかし、やはり行くなら名の知れた大手の塾が安心なはずだと話し合い、部活仲間の何人かが通っていて勧められた大手の映像授業塾に、親子で説明を聞きに行くことにした。

「青学に合格するのは、普通に考えて難しいですねぇ」

「うちは、自分の都合のいい時間に来てビデオ授業を見るスタイルなので、部活があっても、ちゃんと自分のペースで勉強を進められますよ」

 

40代半ばぐらいだろうか。〝教室長〟と書かれた名刺を百合子に渡してきたメガネの男が晴香の質問にそう答えると、晴香は、「ほら、私でもできるじゃん」と言わんばかりに百合子のほうを見た。晴香は、とにかく部活との両立が可能だということを百合子に示したかったので、まず一番に授業スケジュールの説明を求めたのだった。

 

「ちなみに、いつ頃まで部活があるんですか?」

 

「6月までです」

 

晴香は意気揚々と答えた。

 

「大変なんですね。でも頑張れば大丈夫ですよ」

 

教室長は、続けてパンフレットを開いてコースの紹介を始めた。晴香は、そこに載っている講座の種類の多さにびっくりして目を丸くした。英語だけでも文法・長文・英作文と複数の種類の授業があるらしく、まるで世界地図のような、そのページの一体どこから目をつけてよいか分からないぐらいだった。

 

驚いている晴香とは対照的に、教室長は淡々と話を続けた。

 

「ところで、センター型模試は最近受けましたか? 自分の点数って覚えていますか?」

 

晴香はこんなこともあろうかと、2ヶ月前に受験した「センター同日模試」の成績表を持ってきていた。センター同日模試というのは、大学入試センター試験当日の夕方、その解答が公表される前に、全く同じ問題でおこなわれる模擬試験のことだ。

 

「これでいいですか?」

 

晴香は、小言を言われるのが嫌で百合子にも見せていなかった、その成績表を開いて見せた。

 

「英語が200点中78点、世界史と現代文は100点中25点と65点ですか……。偏差値は……なるほど」教室長はメガネの奥で目を細め、少し考えるような仕草をして見せた。それから成績表に目を落としたまま、

 

「具体的に志望校は決まっていますか?」

 

と、少し改まって聞いてきた。

 

晴香は、

 

「青山学院大学に行きたいです」

 

ときっぱり答えた。

 

勉強をサボり続けてきた晴香だったが、高2の秋から胸に抱いている目標があった。それは、青山学院大学に進学して、憧れのダンスサークルに入ることだ。キャンパス見学を兼ねて行った青学の学園祭で、そのダンスサークルの公演を見てから、同じ舞台で踊ることが晴香の目標となっていたのだった。そもそも晴香が大学受験をすることを本気で決心したのも、これがきっかけだった。特に大学で学びたいことも、将来の夢も決まっていなかった晴香にとって、憧れのサークルに入ることは、大学進学の立派な動機だったのだ。

 

「ほー、青学ですか、それはなかなか……」

 

何かの言葉を呑み込んで、教室長は唇を嚙むような表情をしてみせた。唇を嚙むといっても、悔しさを表すような性質のものではない。「自分は困っています」と相手にオーバーに伝えて見せるような、そんな表情だった。

 

教室長は少し間を置いてから、小さな子どもに諭すような口振りで話を続けた。

 

「青学といえば、MARCHの中でも最上位校です。国立落ちや、中高一貫の私立高校の優秀層がたくさん受験するわけです――」

 

MARCHというのは、M=明治大学、A=青山学院大学、R=立教大学、C=中央大学、H=法政大学のことだ。

 

「――現状の点数を見る限りでは、ここから青学に合格するのは、普通に考えて難しいですねぇ……。青学の下の大学では、どこが志望ですか?」

 

「え……特に考えたことないです」

 

「女の子だと、女子大とかも結構人気ありますよ」

 

晴香は、話を逸らされているような気がした。

 

「あの、青学はやっぱり無理なんでしょうか?」

 

「いや、もちろん可能性はゼロではないですけど……」

 

「確かに今まで、本当に何もせずにきてしまいましたが、ここからは本気で勉強するつもりです。そうすれば青学に行けませんか?」

 

「うーん、ベースが違いすぎるんですよね。現時点での基礎学力がなさすぎます。MARCHに行きたいって言う子は多いんですけど、そんなにラクじゃないっていうか……」

 

教室長の言葉の最後には、少しだけ笑いが混じっていた。それは、駄々っ子の相手に困った大人のような笑い方で、晴香は悔しくて口をつぐんだ。

 

「ですよねぇ先生、ホントに世間知らずな子ですみません」

 

言葉を発しなくなった晴香の代わりに、百合子はその場を取り繕うかのように、高い声で教室長に笑いかけた。

 

晴香は頭の中で、様々な考えを巡らせていた。

 

(自分はどれほどのバカなのだろうか。百合子の言うように、世間知らずなのだろうか。青山学院なんて、夢のまた夢なのだろうか。塾に行っても無理なのだとしたら、この先、自分はどうすればいいのだろうか……)

 

不安や苛立ちもあったが、特に晴香の心の大部分を占めていたのは、裏切られた気分だった。というより、晴香が勝手に塾に期待しすぎていたのかもしれない。

 

鼻で笑われるぐらい成績が悪いことも、それが、自分がさんざん勉強をサボってきたせいであることも分かっていた。模試の成績だって、友達や家族に見せるには恥ずかしい内容だと自覚していた。それでも成績表を見せ、志望校を伝え、自分のことをさらけ出したのは、晴香なりの誠意みたいなものだった。塾というところは、自分を応援し、成績を上げてくれる場所だと思い込んでいたので、自分のことを、ちゃんと伝えなければならないと思っていたのだ。それなのに、目の前のメガネの男は、まるで晴香の不合格を証明したがっているように思われた。

 

(おそらく、これ以上何を言っても、青学に合格できない理由を並べてくるに違いない)

 

晴香はそんなふうに感じていた。

 

「まあでも、やる気次第ですよ、お母さん。ここから本気を出して、うちの有名講師陣の授業を見れば、青学だって狙えますよ、ハハハハ」

 

晴香が黙ってしまったことに動揺したのか、教室長は、とってつけたようなフォローをした。しかし、風船ように軽いその言葉は、誰につかまれることもなく、虚しくどこかへ飛んで行った。

「お母さんも、どこか、いい塾がないか探してみるよ」

帰り道、足元をじっと見つめながら歩く晴香に、百合子は話しかけた。

 

「青学は厳しいって言ってたね」

 

「うん」

 

「青学以外に行きたい大学ないの? 女子大とか、お母さんはいいと思うけど」

 

「ない」

 

晴香は、いつも不機嫌になると口数が減る。百合子は、やれやれと思いながらも、次に娘がどうするのかが気になっていた。

 

「どうするの? 受験やめる?」

 

「やめない」

 

「じゃあ、さっきの塾に行くの?」

 

「あそこには行かない。だって、無理だって言ったり、狙えるって言ったり、信用できない」

 

「まあそうね……」

 

「しかも絶対、私のことバカにしてたもん」

 

「じゃあ、ほかの塾探すの?」

 

「うん。それで絶対に青学に行く」

 

言いだしたら聞かない娘である。

 

「……分かった。お母さんも、どこか、いい塾がないか探してみるよ」

 

百合子は、子どもたちが自分で決めたことはどんなことでも、なるべく否定せずに見守るようにしてきた。しかし、今回の娘の挑戦は、百合子の目から見ても明らかに無謀だった。今の大学受験の事情はよく分からなかったが、荻窪西高校の偏差値とそこでの校内順位から考えて、有名大学に合格できるはずがないと思っていた。教室長の態度は、百合子にとっても快いものではなかったが、娘が現実を認識するきっかけを与えてくれた点では、ありがたさも感じていた。あまりに非現実的な挑戦なのであれば、諦めさせる必要もあると考えていたからだ。親として、無駄に娘が疲れ、傷つくところは見たくなかった。

 

しかし、この状況をもってなお、娘は挑戦を諦めていない。意地になっている部分もあるのかもしれないが、本気であることが伝わってきた。であれば、親として応援できる部分は応援してあげたかった。代わりに受験勉強をすることはできないが、塾探しぐらいは手伝ってやりたかった。それから百合子は、夜遅くまでインターネットで塾を検索し、日中に電話で様子を聞くといった具合で、かれこれ5件以上は問い合わせをしていただろうか。「ダイエットスタディ」という変な名前の塾を見つけてきたのは、3日後のことだった。

 

「え、ダイエット? 痩せるための塾?」

 

晴香は最初、「塾」とは結びつかない、この名前に半笑いで応じていた。しかし、パソコンを持った母は鼻息荒く、その塾の説明をしてきた。

 

「ほら、ホームページを見てみて。ゼロからって書いてあるでしょ! 合格率も結構いいのよ。これ、あなたにピッタリじゃない?」

 

「ホントだ。でも、本当にゼロからでも間に合うのかなぁ」

 

「電話して聞いたら『間に合います』って言ってたわよ。あとね、『塾の選び方からお伝えしますよ』って!」

 

「塾なのに、塾の選び方を教えますって?」

 

「そうなのよ。で、『一度娘さんと一緒に、直接話をしに来ませんか?』って。今の状況を細かく聞いたうえで、あなたに合う塾を教えてくれるそうよ」

 

「へぇ~、なんか怪しいけど……」

 

「でね、土曜日に面談予約しちゃった。春休みだから、午前中に部活して学校終わりでしょ? 午後に行ってみましょう」

 

こうして晴香が断る隙もなく、面談に行くことが決まったのだった。

 

 

ストーリーは、事実に基づいて作成したものですが、ダイエットスタディの塾長をはじめとする登場人物の名前等は、変更しております。

ゼロからMARCH 10ヶ月で人生を変えたい受験生たちへ

ゼロからMARCH 10ヶ月で人生を変えたい受験生たちへ

名川 祐人

幻冬舎

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