京都で明治8年に創業した「開化堂」という「手づくりの茶筒」を製造販売する老舗企業があります。現在まで約150年間、激しい時代の変化に見舞われながらも、長くゆっくりと繁栄を続け、海外進出も果たしています。本記事では、開化堂の六代目当主である八木隆裕氏が、著書『共感と商い』(祥伝社)から、職人をはじめとする働く人たちとの接し方において心掛けていることを解説します。

働いてくれる人たちの家族を犠牲にしない

家族の意識で働いてもらうために、僕なりに取り組んできたことをお伝えしましたが、この章の最終パートとして挙げたいことは、「家族に犠牲を強いるような商いをしない」ことです。

 

これは、一つには、先程も挙げた「家族同然の働いてくれる人たちを犠牲にしない、つくる上限を決めた生産体制」の話があります。

 

しかし、さらにその奥には、文字通り、「働いてくれる人たちの家族を犠牲にしない」という考えがあります。

 

というのも、かつての昭和・平成の日本では、特に父親が仕事を遅くまでし、「僕は会社ばっかりで家庭を犠牲にしてきました」という人が少なくなかったように思うのです。

 

でもその結果、家族関係が幸せだったかというと、どうでしょうか?

 

お父さんの仕事がどんなものだったのかをよく知らなかったり、お父さんがしていた業界・仕事へのイメージがあまりよくなかったり……。

 

職人の世界でもそうですが、こうやって仕事と家族を分離してきたような工房というのは、次の代が後を継いでいないことが結構あるのです。

 

一方、開化堂は先程も述べた通り、仕事場が生活の場でもあり、働く人たちも家族同然。

 

だから、「家族か、仕事か」という二者択一の選択は、最初から発想としてありません。

 

実際、僕が小さかった頃も、父母ともに忙しかったはずですが、それを子どもに感じさせることはなく、運動会にもきてくれましたし、いつも夕方には父とキャッチボールをしていた思い出もあります。

 

それどころか、父は僕が通っていた少年野球のコーチもしていました(夕方のキャッチボールは、みなさんの考えるようなものではなく、教える感じのキャッチボール。こればっかりは「見て覚えろ」じゃなく、めちゃくちゃ教えられました。それが嫌ですぐに「トイレ」と言って逃げ込んでいた記憶もあります。今ではよい思い出ですが……)。

 

ほかにも、夏の時期は、かつてはお中元で贈られる茶筒をたくさんつくらなければいけなかったので、7月末までは非常に忙しかったのですが、その時期が終わると、「ほな、海に行こか?」と小浜(福井県)の海に1週間ほど連れていってくれたものです。

 

考えてみれば、そんなふうに「家族の生活を犠牲にしていた」という感覚がないから、僕は家業にマイナスのイメージを持っていなかったし、家に戻って働くことにも抵抗がありませんでした。

 

「仕事仲間は家族同然」という話をここまでしてきましたが、その奥には、それぞれの実際の家族もいます。

 

ですから、僕としても、開化堂で働いてくれる人だけでなく、その家族の人たちのことまで含めて、考えていきたい。

 

そうやって、働いてくれる人たちが持っている家族への思いまで含めて尊重し、みんなが幸せになる走りを続けることが、家族的な経営の条件になるのだと僕は思っています。

次ページ「続く」とは「働いている姿を見せる」ということ
共感と商い

共感と商い

八木 隆裕

祥伝社

手づくり茶筒の老舗「開化堂」 創業明治8年、つくるモノは当時のままの茶筒。 ……にもかかわらず、 ●なぜ、令和の現在でもうまく続いているのか? ●ティーバッグやペットボトルの普及で茶筒がないお宅も多い中、…

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