昭和時代の名古屋。賃貸業をメインとする不動産会社の若手営業マンが、社長のムチャぶりで刊行した「住宅情報雑誌」は、苦労の甲斐があって大好評。本業である不動産の賃貸にも大きく貢献し、部屋はどんどん埋まっていきます。一方で、不動産の賃貸管理業の成長とともに、新たな課題が見えてきました。会社は効率化のため、「管理事業部」を新設しますが…。

管理事業部、負担に耐えかね責任者が1年で退職

管理事業部は編集企画課の隣の机6つでスタートしたのですが、仕事の大変さや採算が取れないプレッシャーなどがあったのでしょう、1年ほどで責任者が辞めてしまいました。

 

たまたま近い席にいた私が責任者を兼ねることとなり、都合2年ばかり編集長と管理事業部責任者の二足のわらじを履きました。

 

私は管理事業部の責任者として採算が取れていない現状を看過することはできず、事業を継続するか撤退するかの選択を迫られました。他社のやり方を参考にしようにも当時はまだ賃貸管理を1つの事業としている会社は少なく、成功のビジョンがなかなか描けなかったのです。傷口を広げないためには賃貸管理業からの撤退もやむなしと考えていました。

 

そんななかで1979年に管理事業部に中途入社してきた沢井政資(現ニッショー常務取締役)が立て直しに動きました。彼は「負担の大きい家賃保証に関する業務からは手を引き、退去手続き業務に専念するように改めること」と「管理料を採算の取れる適正料金に再設定すること」を決定したのです。そして、新たな管理料を受け入れてくれるオーナーのみと継続して取引することとしました。

 

彼が管理事業部の責任者としてふさわしいと確信した私は彼に責任者の席を譲り、肩の荷を1つ下ろすことができたのです。

賃貸管理業の成長とそれに伴う混乱

1980年に再スタートを切った管理事業部は業務内容を整理したことと、世の中の賃貸建築業界の盛り上がり、および入居需要に後押しされたことで採算化に転じました。管理物件が著しく増加していったので、管理社員も積極的に増強されました。

 

しかしながら、その業務内容ゆえに煩雑な事務処理と手作業の繰り返しが多く、すぐに仕事量にマンパワーが追いつかなくなり、請求や支払いなどの金銭処理が遅滞するようになりました。社内の混乱や困惑、事務処理能力の脆弱さが露呈してオーナーや外注先に迷惑をかけたことは今思い返しても苦い記憶です。

 

本社の管理事業部の職場スペースの拡大や出張所の増設などの対策はしましたが、根本的な事務処理能力の向上と業務の迅速化という課題はすぐには解決できませんでした。1987年にオフィスコンピューターを導入するまで、地道な手作業での仕事が続いたのです。

 

 

加治佐 健二
株式会社ニッショー 代表取締役社長

 

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    加治佐 健二

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    メーカーから転職して1976年に28歳で営業職として入社し、充実した日々を送っていた筆者。 その矢先、突然社長と常務から呼び出され「東海エリア初の賃貸住宅情報誌の創刊」を命じられたのです。 そして右も左も分からな…

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