イラストレーション=メイ ボランチ

承久の乱から3年後の1224年、北条義時が没します。義時没後、鎌倉で不穏な動きを起こしていたのは、義時の後妻・伊賀の方でした。「尼将軍」政子に不満を抱いていた伊賀の方は、一族で幕府を支配しようと画策していたのです。大迫秀樹氏が著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)で解説します。

「鎌倉殿」独裁から「法の下」の武家政権

第3代執権の北条泰時は、5代目「鎌倉殿」になったのでしょうか?

 

泰時は新しい時代を迎えるべく、頼朝以来の大倉御所を移転し、人心の一新もはかりました。新たに連署という職を設けたのです。連署は執権の補佐役、すなわち幕府の公式文書に「執権と連4名で署4名する役」を担っていました。

 

初代の連署には、頼れる叔父・北条時房が就任しました。六波羅でともに朝廷と交渉にあたり、その能力も気心も知れています。

 

さらに泰時は、13人合議制のリニューアル版を設置しました。政務能力のある11人の御家人を評定衆として選び、合議によって幕政を運営することにしたのです。

 

将軍が表に出ることはありません。執権・連署・評定衆という合議体制が新時代の「鎌倉殿」になったといってもよいでしょう。もちろん、だれも「鎌倉殿」とは呼んでいませんでした。そもそも、初代頼朝のようなボス「鎌倉殿」は必要なくなっていたのかもしれません。

 

評定衆には当初、三浦義村や大江・中原・三善・二階堂の子息らが名を連ねていましたが、やがて北条一族が占めるようになりました。

 

鎌倉幕府はこうして、「鎌倉殿」の独裁体制から、宿老による13人合議制という短命の行政組織を経て、さらに“仁義なき戦い・鎌倉死闘編”、承久の乱を乗り越えて、「新生合議制」による執権政治へと成熟していったのです。

 

大迫秀樹著『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)より。
大迫秀樹著『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)より。

 

1232年、北条泰時は「御成敗式目」(貞永式目)を制定しました。

 

それまでの武士の慣習・道徳にのっとった、武士による初めての成文法でした。朝廷の律令とは別に、御家人(守護・地頭)の任務・権限、罪を犯した者の刑罰、裁判の手続きなどの基準を定めたのです。泰時は六波羅で朝廷の役人たちと接するなか、時房とともに法理の大切さを学んだのでしょう。

 

当初、御成敗式目の効力は鎌倉と東国に限られていましたが、しだいに範囲を拡大させていきました。やがて律令や公家法が及んでいた社会にも影響を及ぼすようになります。

 

源頼朝が平氏打倒の狼煙を上げてから約半世紀、「鎌倉殿」の支配の仕組みは、「法」の支配へと進化を遂げたのでした。

 

大迫 秀樹
編集 執筆業

 

 

↓コチラも読まれています 

「鎌倉殿の13人」梶原景時はなぜ告げ口で身を滅ぼしたのか?(中村獅童)

 

「鎌倉殿の13人」2代目頼家の最期は「あまりに壮絶な裏切り」(金子大地)

落馬か?病気か?暗殺か…?鎌倉幕府を作った「源頼朝の死因」(大泉洋)

「鎌倉殿の13人」比企能員の乱…頼家の後見人が北条氏に殺された理由(佐藤二朗)

「鎌倉殿の13人」最後まで頼朝の心が読めなかった愚弟・義経(菅田将暉)

※本連載は大迫秀樹氏の著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)から一部を抜粋し、再編集したものです。

「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

大迫 秀樹

日本能率協会マネジメントセンター

学校の授業で歴史を習うときに必ず出てくる「鎌倉幕府」。日本で初めて本格的な武士による政治のはじまりとして覚えさせられた人が多いことでしょう。そこで、習った人には思い出していただきたいのが、鎌倉幕府の成立は何年と…

人気記事ランキング

  • デイリー
  • 週間
  • 月間

メルマガ会員登録者の
ご案内

メルマガ会員限定記事をお読みいただける他、新着記事の一覧をメールで配信。カメハメハ倶楽部主催の各種セミナー案内等、知的武装をし、行動するための情報を厳選してお届けします。

メルマガ登録