イラストレーション=メイ ボランチ

13人合議制の創始メンバーで残る武士は、第2代執権の北条義時と三浦ファミリーの筆頭の和田義盛だけです。和田義盛にとっては、源氏こそが「鎌倉殿」であり、北条氏は仰ぎ仕える殿ではありません。ついに和田義盛は北条氏を倒すために挙兵します。大迫秀樹氏が著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)で解説します。

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    「和田合戦」古参御家人の和田義盛挙兵

    そんな血を引く成胤に、安念はある計画の協力を求めてきたのです。

     

    〈北条を倒す。頼家の遺児・千寿を将軍に立てる。力になってほしい!〉

     

     
    大迫秀樹著『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)より。

    北条転覆計画の首謀者で、安念を成胤のもとに送ったのは、信濃源氏の泉親衡でした。

     

    御家人のあいだでは、時政追放によって一旦収まっていた北条体制への不満がじわじわ高まっていました。いまがチャンスとみた泉親衡は廻状(回し読みの伝達文書)を送り、300人以上の御家人と武士を結集させていたのです。

     

    しかし、成胤は協力に応じず、逆に安念を捕らえ、御所に連行したのでした。転覆計画は未遂のうちに失敗。

     

    これで終われば、幕府転覆未遂・泉親衡の小乱として片付けられるはずでした。

     

    ところが、転覆計画に加わった御家人のなかに、和田一族が含まれていたのです。和田義盛の子である義直・義重と、弓の名手として知られた甥の和田胤長らです。あわてて駆けつけた義盛は、実朝に嘆願します。実朝はこれまでの義盛の貢献に免じて、息子ふたりを許しました。

     

    これに調子に乗った義盛は甥の胤長の赦免も求め、一族で御所に押しかけたのです。しかし、義時の意を受けた実朝から、〈胤長は首謀者のひとり。受け容れられぬ〉と退けられました。

     

    さらに北条義時は強圧的な行動に出ます。胤長に縄をつけて引きずりまわし、さらし者にしたうえ、流罪に処したのでした。和田義盛に対する“挑発行為”といってもよいでしょう。和田一族にとっては、耐えがたい恥辱でした。

     

    なお、胤長を引きずりまわしたのは、二階堂行村でした。13人合議制発足時のメンバーで官人の二階堂行政の子です。

     

    ■和田合戦と「友を食らう犬」義村

     

    和田義盛は義時の“挑発行為”に、全体重をかけて乗っかかりました。

     

    打倒北条に向け、一族を結集したのです。当然、同じ三浦ファミリーの三浦義村と胤義(義村の弟)も参戦の約束をしました。

     

    大迫秀樹著『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)より。
    大迫秀樹著『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)より。

    5月、和田義盛の軍勢が、大倉御所を攻撃。

     

    北条義時と3代目「鎌倉殿」実朝は、なんとか脱出したものの、火をつけられた大倉御所は全焼しました。鎌倉が戦場になったのは、初めてのことです。昨日まで同じ酒を酌み交わしていた御家人も、敵同士になりました。

     

    激しい市街戦が続き、一進一退の攻防を繰り返します。しかし翌日、実朝が態度を保留していた御家人に向け、和田追討の命令を出すと、戦況は急転しました。

     

    開戦から3日目、和田義盛が由比ヶ浜で討たれ、和田合戦は北条の勝利に終わりました。老骨に鞭打った義盛、67歳の最期でした。

     

    勝敗を分けたのは実朝による追討命令でしたが、もうひとつ耳を疑うことが起こっていました。同じ三浦ファミリーの三浦義村・胤義兄弟が裏切っていたのです。

     

    義村は事前に、義盛の蜂起計画を義時に伝えていたのでした。合戦でも、義村と胤義はたくさんの血と汗を流したことから、その功が認められ、義村は北条義時の事実上の腹心ナンバー1になりました。

     

    義村の行為は急な寝返りに見られそうですが、かねてから、和田義盛と義村・胤義兄弟の関係は良好ではありませんでした。たがいに〈われこそ三浦家の主なり!〉という意識が強かったのです。義村たちのほうが三浦姓を名乗っていたのですから尚更でしょう。

     

    それでも、義村のチクりは、同族への明らかな裏切り行為です。義村は他の御家人から「三浦の犬は友を食らう」とあざけられ、信頼を失ったのでした。ちなみに、このあとも三浦義村は70歳前後まで生きのび、いくつかの歴史の分岐点で、表とも裏とも解釈できる立ち回りを演じます。

     

    ともあれ、13人合議制の創始メンバーが、またひとり舞台から消え去りました。生き残ったのは、北条義時と2人の官人だけです。一緒に「鎌倉殿」実朝を支えるのは、50代半ばを過ぎた「尼御台所」北条政子。そして、やはりこんな声が出てきます。

     

    〈これまた、義時にとって都合がよすぎる。泉親衡の転覆計画からして、義時か政子が書いたシナリオじゃないの!?〉

     

    大迫 秀樹
    編集 執筆業

     

     

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      ※本連載は大迫秀樹氏の著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)から一部を抜粋し、再編集したものです。

      「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

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      大迫 秀樹

      日本能率協会マネジメントセンター

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