教育に燃えた20代、全力で駆け抜けた30代、何事にも野心的だった40代、学校現場と教育委員会の狭間で闘った50代、そして、肩書から解き放たれた60代。これからを担う世代へエールを込めて教師としての生き様を刻み込む!

 

一方、愛知県は地元と隣接し、中部地方最大の都市、名古屋を擁することから受験し最終合格まで行った。3月下旬、その愛知県の配属予定先の高校の校長先生から電話がかかってきた。「あなたに、本校の教員として、4月より来てもらうことになった。ついては、本人確認と書類手続き等があるので、いついつ来てほしい」というものであった。

 

すでに、この時第一志望の東京都に受かっていたため、私はその電話でお断りをしなければならなかった。これぞまさしく”ドタキャン”だった。この時ばかりは「人の道を踏み外している」と自責の念に駆られた。先方の「この期に及んでどういうことか」という怒りが、電話口を通して突き刺さるように伝わってきた。断りの理由は、とっさに「大学院に進むことになった」と口をついて出てきた。そうした対応については、予め先輩たちから”伝授”されていたので、そのマニュアル通りの対応であった。

 

ところで、そもそも高校教師を志望した理由はというと、生活指導の占める割合が多い中学校よりも、大学の延長で、「歴史学」すなわち「学問」を通して生徒と関わっていきたいとの思いから、教科指導を重視する高校を考えた。学問、というか専門分野の探求が可能かどうかが、私の判断基準としてあった。そして、高校には、当時「研修日制度」※6というものがあり、専門性の向上において、とても魅力的な環境が整っていたことも大きな決め手となった。こうした理由から高校教員を受験したのであった。

 

※6:「研修日制度」当時、東京都の高校には研修日の制度が存在していた。主として、専門教科の教材研究を目的に、学校を離れ図書館や大学などに通い、研鑽を積むことができるという制度であった。そして、それは週1日と決められており、それぞれの教員が自ら希望日を指定し、その指定日は基本的に学校に勤務しなくてもよいことになっていた。大体は自宅や図書館で授業準備をする方が多かったように思う。しかし、中には"研修"とは名ばかりで、平日の昼間からゴルフに出掛けたり、自宅で自動車を洗車したりしている者もいた。そうしたことが都民の厳しい目にさらされ、新聞・テレビ等のマスコミにも取り上げられたりもした。そうした中で、2002年、学校週5日制の完全実施に伴い、いよいよもって研修日の制度は廃止されることとなった。

 

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財前 二郎

1957年長野県生まれ。1982年4月より2018年3月まで36年間、都立高校の教員として勤務する。全日制課程、定時制課程、普通科、専門学科等の様々な課程・校種、9校を経験する。その間、進路指導主任、学年主任、教務主任、教育課程委員長、将来構想検討委員長などを務めるとともに、対外的には東京都教育委員会開発委員(2期)、文部省専門委員(3期)なども経験する。
なお、2004年4月より副校長として2校5年間、09年4月より校長として3校9年間、管理職として学校経営にあたる。18年3月、校長として定年退職を迎える。

本記事は、20年10月刊行の書籍『ザ・学校社会 元都立高校教師が語る学校現場の真実』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。最新の法令等には対応していない場合がございますので、あらかじめご了承ください。

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