急速な高齢社会化に伴い様々な健康問題が発生する現代日本。人々は介護という課題にいかに向き合うべきか。英国老年医学の母、マージョリ・ウォレンの実例をもとに解説します。

英国老年医学の母 マージョリ・ウォレン

我が国では、介護保険ができる以前には、特別養護老人ホームへの収容が忌避される傾向がありました。

 

それは行政による措置ということになるからです。老年痴呆(現在の認知症)に至っては、鍵のかかった畳の大部屋に毛布を持たせて入れるという、人権を全く無視した隔離政策がとられていました。

 

親を病院に入院させるのは子供にとっては美徳ですが、老人ホームに入れるのは、親を見捨てたことになるという世間の風潮がありました。老人ホームの新築ということがあると、近隣住民は、皆、反対したのです。差別という考えが出てきました。

 

ところが寝たきり老人や認知症など、ケアを必要とする老人が急速に増大してきました。行政は、ケア、リハビリテーションなどの社会化という基本的概念が欠け、対策がなかったことに気がついたのです。介護保険が導入されてケアの社会化が始まったのは、2000年になってからです。もはや一刻の猶予もなく、対応に迫られてきたのです。

 

一方、先進国、特に英国ではすぐれたケアの手本がありました。ウォレンという女医が老年ケアの在り方を世界に向けて示したのです。それは100年近くも昔のことでした。

 

マージョリ・ウォレンは、老年医療とケアの母といわれる医師です。ウォレンの業績を知ることは、老年医療の本質を知ることになるのでここに紹介いたします。

 

ウォレンは1897年のロンドン生まれで、父親は英国紳士の弁護士、母親は教育熱心な思慮深い女性でした。ウォレンは、5人姉妹の長女でした。

 

1923年に医科大学を卒業して医師の資格を取り、外科医として公立西ミドルセックス病院に勤務しました。女性の外科医は当時は少なかったのですが、4,000例もの手術を行って実績を上げ病院長代行にまで昇進しました。

 

しかし転機は1935年、ウォレンが38歳の時に訪れました。この年、近郊に714床の障害を持った慢性疾患患者収容の病棟が併設され、ウォレンがその責任者に指名されたのです。入院患者の多くが老人で貧しく不治のレッテルを貼られ、社会から見放されていました。

 

一般に老人医療は、貧しい身寄りのない老人が、はじめは対象となっています。尼子富士郎(日本老年医学のパイオニア)が勤務した浴風会病院でも、患者は20床くらいの大部屋に入れられ、性の区別なく、男性と女性の病床が交互に並べられていました。

 

患者がベッドから落ちて骨折を起こすと寝たきりになり、オムツをあてがわれ、肺炎で亡くなるというのがお決まりのコースでした。亡くなると剖検になり、担当医の記録と病理所見が対比され、討議することから老化と老年病についての知識が得られたのです。しかしこれは、医師中心の診療であり、患者にとっては何のメリットもありませんでした。人権は無視されて、良くなって退院する患者も稀でした。全病床数は、200床くらいであったかと思います。

 

ウォレンが責任者として担当した病棟は700床ですから、浴風会に比べてもかなり大きかったと思います。医師も少なく指導者もおらず、ウォレンには何の期待もされなかったことでしょう。

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本記事は、2021年7月刊行の書籍『健康長寿の道を歩んで』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。最新の法令等には対応していない場合がございますので、あらかじめご了承ください。

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