イラストレーション=メイ ボランチ

源頼朝と北条政子の間に生まれた源頼家。生まれた直後から「次代将軍」としてみられ、特に武芸の腕を賞賛されていました。しかし、頼家18歳のときに頼朝が亡くなると、歯車が狂い始めます。大迫秀樹氏が著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)で解説します。

あなたにオススメのセミナー

    「鎌倉殿の13人」に選ばれる理由

    ▶流人の頼朝に仕え、政子との縁もつなぐ?

    大迫秀樹著『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)より。
    大迫秀樹著『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)より。

    安達盛長
    〈読み〉あだち もりなが
    生年 1135年
    没年 1200年
    出身 相模国?

     

    出自は不明ですが、三善康信(善信)と同じく、乳母の縁で佐殿こと頼朝に従うようになりました。比企尼の娘を妻に娶っていたのです。1147年生まれの頼朝にとっては、ひと回り年上の頼れるアニキであり、長い付き合いから、本音で語り合える仲間でもありました。

     

    盛長が頼朝と政子の仲を取りもったという話もあります。頼朝が好意を寄せていたのは政子の妹でしたが、妹のよからぬ噂を耳にした盛長は、頼朝が書いたラブレターの宛名を政子に書きかえて届けたとか? 

     

    元の姓は足立で、通称は藤九郎。1189年の奥州征伐のあと、奥州藤原氏から奪った陸奥国の安達郡を所領とし、安達姓を名乗るようになりました。官職をねだることなく、裏切りや陰謀などとも無縁? 頼朝の死の翌年、まるで頼朝を追うかのように亡くなりました。

     

    ▶アンチ平氏の旗頭、文武両道で幕府を支える

    大迫秀樹著『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)より。
    大迫秀樹著『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)より。

    足立遠元
    〈読み〉あだち とおもと
    生年 1130年代?
    没年 1210年ごろ?
    出身 武蔵国

     

    父の代から武蔵国の足立郡を拠点にしていました。父の弟が安達盛長という説もありますが、定かではありません。遠元と源氏との縁は深く、1156年に平治の乱が起こったとき、源義朝(頼朝の父)に従い、平清盛と戦いました。少年時代の頼朝の眼には、遠元の奮闘する姿が焼き付いていたかもしれません。

     

    反平氏の旗頭で、決起した頼朝が武蔵国に入るや否や、仲間を伴って馳せ参じました。頼朝の信任を得たことで、足立の所領の諸権利を保障(本領安堵)されています。

     

    東国ボスながら読み書きが堪能だったので、幕府では重宝されました。1184年に公文所(のちの政所)が設置されると、中原親能や二階堂行政らとともに寄人(スタッフ)に選ばれています。「13人」メンバーに選ばれたのも、こうした文武併せもった才能ゆえでしょう。

     

    ▶無断で官位を授かるがしっかり爪痕を残した?

    大迫秀樹著『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)より。
    大迫秀樹著『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)より。

    八田知家
    〈読み〉はった ともいえ
    生年 1142年?
    没年 1218年
    出身 常陸国

     

    足立遠元と同じく、源氏との結びつきは義朝(頼朝の父)の代からと深く、義朝の落胤説、つまり頼朝とは兄弟だったという説まであります。これが確かなら、義経たちとも兄弟ということになります。

     

    平氏を滅ぼした義経は朝廷から官位を授かり、頼朝の怒りを買いました。このとき、知家も官位を授かり、頼朝から「怠け馬のくせに!」となじられています。そんな頼朝も征夷大将軍の官職に執着した一面があります。頼朝・義経・知家の3人にはこうした共通点があるものの、知家は宇都宮(中原・八田)宗むね綱つなの子とされています。

     

    頼朝の死後、阿野全成が謀反をくわだてた(?)とき、知家は頼家の命を受け、全成を殺害しています。全成は大変な荒くれ者。そして彼もまた義朝の子という因縁めいた相手でした。「怠け馬」知家の蹄にしては、なかなか深い爪痕を残しました。

     

    ▶教師の家系にありながら、アウトドア派の働き者

    大迫秀樹著『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)より。
    大迫秀樹著『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)より。

    中原親能
    〈読み〉なかはら の ちかよし
    生年 1143年
    没年 1208年
    出身 京都

     

    明法博士・中原広季の子(養子、諸説あり)で、大江広元の義理の兄にあたります。「明法」とは、古代の法律全般(律令・格式)のことで、中原家は代々官僚の卵に明法を教える官職にありました。頭脳優秀でなければ務まりませんが、官位はさほど高くありませんでした。

     

    頼朝とは早くから通じ合っていたようで、頼朝が挙兵したときには、平氏からスパイの疑いをかけられたほど。幕府では政所の寄人(スタッフ)として、別当(長官)を務める義弟・広元を支えました。

     

    こうした経歴から典型的な〝文系インドア派〟に思われそうですが、源平合戦では義経や範頼を助け、奥州征伐にも従軍しています。その後も大仏再建や朝廷との折衝など、京都守護として東奔西走の日々。バリバリの〝体育会系アウトドア派〟の仕事人間だったようです。

     

    ▶初代「鎌倉殿」を支え、北条政権の礎をつくる

    大迫秀樹著『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)より。
    大迫秀樹著『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)より。

    二階堂行政
    〈読み〉にかいどう ゆきまさ
    生年 1130年代?
    没年 不詳
    出身 京都

     

    藤原南家工藤氏の流れを引く文官。母方が熱田神宮の大宮司家の出だったことが縁で、頼朝に仕えるようになったといわれます。頼朝が鎌倉に建てた永福寺(別名二階堂)のそばに居を構えていたことから、二階堂を名乗るようになりました。

     

    幕府では、公文所と政所(公文所を改称)で別当の大江広元の下、政務裁断に関する事務処理に携わりました。大江が不在のときは職務代行者となり、13人合議制がスタートしたときには、大江とともに政所別当の一員でした。このころ、すでに60歳を超えていたとみられます。

     

    子の行村と行光も頼家以降の幕府を支え、子孫も代々、政所の執事を務めました。行村は1225年に設けられた評定衆の一員にも選ばれています。地味ですが、二階堂家の鎌倉幕府への貢献度は二重マルです。
     

     

    大迫 秀樹
    編集 執筆業

     

     

    ↓コチラも読まれています 

    「鎌倉殿の13人」梶原景時はなぜ告げ口で身を滅ぼしたのか?(中村獅童)

     

    「鎌倉殿の13人」2代目頼家の最期は「あまりに壮絶な裏切り」(金子大地)

    落馬か?病気か?暗殺か…?鎌倉幕府を作った「源頼朝の死因」(大泉洋)

    「鎌倉殿の13人」比企能員の乱…頼家の後見人が北条氏に殺された理由(佐藤二朗)

    「鎌倉殿の13人」最後まで頼朝の心が読めなかった愚弟・義経(菅田将暉)

    あなたにオススメのセミナー

      ※本連載は大迫秀樹氏の著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)から一部を抜粋し、再編集したものです。

      「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

      「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

      大迫 秀樹

      日本能率協会マネジメントセンター

      学校の授業で歴史を習うときに必ず出てくる「鎌倉幕府」。日本で初めて本格的な武士による政治のはじまりとして覚えさせられた人が多いことでしょう。そこで、習った人には思い出していただきたいのが、鎌倉幕府の成立は何年と…

      人気記事ランキング

      • デイリー
      • 週間
      • 月間

      メルマガ会員登録者の
      ご案内

      メルマガ会員限定記事をお読みいただける他、新着記事の一覧をメールで配信。カメハメハ倶楽部主催の各種セミナー案内等、知的武装をし、行動するための情報を厳選してお届けします。

      メルマガ登録
      TOPへ