(写真はイメージです/PIXTA)

今年の10月、後期高齢者の医療負担に関する制度が改定され、所得によって負担割合が変化します。この制度改正はなぜ施行されるに至ったのでしょうか。本記事では、ニッセイ基礎研究所の三原岳氏が、高齢者の医療負担について過去の制度を紐解きながら解説します。 ※本記事は、ニッセイ基礎研究所の医療保険制度に関するレポートを転載したものです。

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    50年前の老人医療費無料化を巡る経緯

    1.無料化の背景

     

    老人医療費無料化のための改正老人福祉法は1972年6月の国会で成立し、1973年1月から施行されました。この判断について現在は「田中角栄内閣によるバラマキ」と理解されていますが、筆者は「二重の意味で正しいとは言えない」と考えています。

     

    第1に、無料化を決めたのは佐藤栄作内閣の時であり、50年前の国会では佐藤首相が施政方針演説で、「今後予想される老齢人口の増大に対処し、老人福祉の充実強化をはかる」ため、老人医療費の無料化などに取り組むとしています。ただ、佐藤が1972年7月に退陣し、後を襲った田中が「福祉元年」を掲げたことで、老人医療費無料化は「田中発案の施策」と理解されている面があります。

     

    第2に、当時は年金制度が成熟しておらず、給付額が十分とは言えない事情があり、医療費の負担軽減を求める声が強かった点も指摘できます。例えば、内田常雄厚相の発案を受けて、有識者や関係団体の幹部などが参集する形で、1970年9月に開催された「豊かな老後のための国民会議」の報告書では、「老人医療費は全額公費で負担すべきだ」といった意見が取りまとめられています。50年前の新聞を見ても、「老人医療費を無料にすると、病室が患者であふれる」という大蔵省(現財務省)の反対意見を「変な言い訳」と切って捨てた上で、既に老人医療費無料化に踏み切った地方の実態として、「病室が老人であふれるなんて実態は全然ありません」(東京都民生局老人医療課)などの声が紹介されています。

     

    実際、岩手県沢内村を手始めに、横浜市、東京都など主要な自治体が同様の制度を採用していたため、当時の国会会議録では37都道府県、6政令市で同種の施策が実施されているとして、「飛躍的拡充どころか、これまでの施策の立ちおくれを追認したに過ぎない」という政府批判の発言も残されています。こうしてみると、政治家だけでなく、学識者やメディアなど幅広い層が老人医療費無料化を支持していたことは間違いないと思います。

     

    2.なぜ70歳で区切ったのか、なぜ老人福祉法で対応したのか

     

    ただ、老人医療費無料化が「バラマキ」と判断されている理由もあります。この点については、「なぜ『70歳』で区切ったか」「なぜ老人福祉法で対応したのか」という2つの問いで見えて来ます。

     

    まず、70歳で区切った理由で考えると、現在は「65歳」以上の人を高齢者と定義しており、前期高齢者と後期高齢者の区分も「75歳」で設定されています。さらに、当時も厚生年金の老齢年金は60歳、国民年金の老齢年金と健康診査の年齢は65歳、福祉年金は70歳で、それぞれ年齢が区切られており、「70歳」で線引きした理由は見えにくいし、当時の国会でも整合性が話題になっています。

     

    これに対し、厚生省(現厚生労働省)の担当局長は「(筆者注:先行的に導入した自治体の制度が)70歳以上であるという現実をとらえまして、そして都道府県と一緒にやるわけでございますから、客観情勢がそうなっている」「財政的な問題が非常に大きな問題になります」といった点を挙げた上で、「最初とにかくスタートするということで、70歳以上ということに区切った」と説明しています。つまり、実質的な「取り組みやすさ」が重視されたわけです。

     

    もう一つの「なぜ老人福祉法で対応したのか」という疑問についても、「取り組みやすさ」が優先された面があります。老人医療費の無料化に際しては、各種保険制度の上に乗せるような形で、税財源(国3分の2、自治体3分の1)を用いて患者負担分を軽減する仕組みが採用されたのですが、患者負担の根拠を定めている健康保険法などの改正ではなく、高齢者福祉をカバーする老人福祉法の改正で対応しており、些か奇異に映ります。

     

    この点については、当時の厚生省が置かれた環境に原因があると考えられます。当時、厚生省は医療保険制度の「抜本改革」の検討を進めており、前年の1971年には「抜本改革が進まない」という大義名分の下、日医が保険診療のボイコットに当たる「保険医総辞退」を1カ月間、仕掛けた経緯がありました。このため、厚生省は医療保険制度の抜本改革の議論も別に進める必要に迫られており、保険局の負担を減らすため、社会局(現社会・援護局)の所管である老人福祉法で対応することにしたと思われます。その証拠として、当時の幹部は「保険医総辞退があり、『いま保険局にそういう作業をさせるのは大変だ。社会局で公費負担の形で老人福祉法の一部改正で行うように』という大臣(筆者注:当時は斎藤昇厚相)指示が下った」と振り返っています。

     

    つまり、70歳で区切った点とか、老人福祉法で対応した点に関しては、特段の背景があったわけではなく、「取り組みやすさ」が優先されたと言えます。この点については、別の厚生省幹部が「結果的に政治サイドの要求も強くて、スタートした」「高度成長時代をバックにした、迎合福祉の最初」と当時の様子を語っていますし、入省直後だった厚生省官僚も「医療費の問題は社会局ではぜんぜん関心がない」「保険局はもともと無料化に反対していましたが、政治的に押し切られた」と述べています。

     

    こうした発言や経緯を踏まえると、革新自治体に対抗したい自民党のプレッシャーが強く、「とにかく制度をスタートさせたい」という事情で老人医療費無料化が始まった様子を看取できます。こうした見切り発射的な状況が現在、「バラマキ」と批判されている理由なのかもしれません。

     

    3.無料化の副作用

     

    さらに、老人医療費無料化の副作用は大きかったことも評判の悪さに繋がっています。無料化に伴って高齢者の受診率改善などの効果があったものの、先に引用した大蔵省の懸念通りに、病院が高齢者のサロンと化すなど無料化の弊害が浮き彫りとなったためです。

     

    その一例として、「社会的入院」が挙げられます。老人医療費の無料化に伴って、高齢者を多く受け入れる「老人病院」が増えた一方、当時の高齢者福祉制度が貧弱で、在宅ケアの選択肢も限られていたため、医学的なニーズが小さいのに家族や住宅の都合などで高齢者が入院する社会的入院が顕在化したわけです。

     

    その後、社会的入院の解消に向けた施策は現在に至るまで間断なく続けられています。例えば、1988年4月にスタートした「老人保健施設」は元々、病院から自宅への退院を支援する「中間施設」として整備された経緯がありますし、介護保険制度が2000年4月に発足した時も、社会的入院の解消が意識されていました。

     

    さらに本稿のメインテーマである高齢者の患者負担に関しても、1980年代から医療費適正化の動きが強まる過程で、軌道修正が図られていきます。その最初が40年前の1982年8月に成立した老人保健法になります。

     

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    本記事記載のデータは各種の情報源からニッセイ基礎研究所が入手・加工したものであり、その正確性と安全性を保証するものではありません。また、本記事は情報提供が目的であり、記載の意見や予測は、いかなる契約の締結や解約を勧誘するものではありません。
    ※本記事は、ニッセイ基礎研究所が2022年1月12日に公開したレポートを転載したものです。

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