高校時代に「軟式野球同好会」を創設したが、3年には「補欠」となり、最後の夏の大会で代打出場して3球三振で終わったビビる大木氏。やりたいことを自分で始める勇気を持つことができ、一歩を踏み出せたといいます。ビビる大木氏が軟式野球同好会を創設して得た教訓を著書『ビビる大木、渋沢栄一を語る』(プレジデント社)で明かします。

「代打大木」で3球三振で終わった高3の夏

■「軟式野球同好会」で生まれた悲劇の主人公も僕

 

同好会創設の頃、僕のポジションは最初、4番サードでした。部員が増え、徐々に追いやられ、コーチ役の先生からは、「大木、どこでもいいから、やってみろ」と自由な、投げやりな対応だったので、ピッチャーから始まり、ファースト、外野とポジションはたらい回し。一応、設立功労者としての特待的自由だったと、僕はそう思っています。

 

設立した当初は人数も少なかったので、4番サードも許されました。僕が自分でつくった同好会だったので、部のみんなも認めていました。

 

しかし、だんだん、だんだん部員が増えていきました。硬式野球部はそれなりに練習が厳しく、硬式野球部を辞めた人間が流れてきました。部員たちはみな、中学まで軟式野球部に在籍していましたから、僕とはモノが違いました。

 

そういう面々がどんどんレギュラーになり、僕はどんどん、どんどん外されて、最後は補欠になりました。自分で立ち上げた「軟式野球同好会」で、最終的に補欠になるという現実……。ドラマチックと言えばドラマチックですが、僕はかなりふてくされて、「足が痛い」と嘘をついて帰っていました。

 

創設者なのに補欠という現実は本当に切なかったです。僕の青春は過酷でした。クラスの女子たちは、「大木、自分でつくったのに補欠らしいよ」と小声で笑うのです。

 

当時は苦しかったですが、今では思春期に恥をかいてよかったなと思っています。カッコ悪い思いをしたことが、素晴らしいご褒美でした。たとえ僕が「補欠」で終わったとしても、自分が創設したという実績は消えません。

 

「部が発展し、力のある有力な選手が集まってきたので、補欠になった。それは、同好会としてはとてもいいことだ」、そんなふうに考えるようになりました。会社が大きくなったので、「あとは君たちでやりなさい」と渋沢さんみたいなことをして、僕はまた違う部をつくることにすれば、きれいな高校時代の思い出になりましたが、僕はそこまで考えを深めませんでした。少しふてくされていた点が10代の人間臭さです。

 

高校3年、これで引退となる最後の夏の大会、9回裏のこと。先生が、「代打、大木」と告げて、「行って来い。振って来い」と言ってくれました。

 

軟式野球は当然、金属バットを使います。でも、僕はあえて木製バットでバッターボックスに入りました。木製バットは芯に当たらないと、本当に飛ばないんです。金属はちょっと芯からズレても飛ぶんです。代打、木製バットの僕は、3球三振でした。

 

僕は、右手を高く天空に上げて、「己の青春に、一片の悔いなし!」と叫びました。あのときは、『北斗の拳』の長兄のラオウになっていました。

 

自分でその現場において、あるいは組織において、学校において、やりたいことが見つかりにくかったとき、もし「自分がやりたいことはこれなんだけどな」という気持ちがあった場合には、やりたいことを自分で始める勇気を持つことです。

 

僕はその勇気を持てたので、一歩踏み出せました。そう考えると、やはり今の自分の原点は、自分の興味を持ったことには全力を尽くしてみるということです。

 

ビビる大木

 

 

※本連載は、ビビる大木氏の著書『ビビる大木、渋沢栄一を語る』(プレジデント社)より一部を抜粋・再編集したものです。

ビビる大木、渋沢栄一を語る

ビビる大木、渋沢栄一を語る

ビビる 大木

プレジデント社

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