驕れる者は久しからず…平家の英傑平清盛はマラリアで死んだ? (※画像はイメージです/PIXTA)

平清盛は、平安時代末期に活躍した武将です。それまで力の弱かった武士を束ねて、貴族をもしのぐほどの強大な勢力になります。その後、宿敵源氏を打ち破って、一度は武士の頂点に立ちますが、やがて源氏に滅ぼされます。平清盛の生涯を追いながら、死因の謎に迫ってみましょう。

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平清盛の略歴

清盛は、永久6年1月18日(1118年2月10日)、現在の京都市に生まれました。平治の乱で源頼朝に圧勝し、上級貴族として認められます。しかし、目覚ましい活躍をしながら、なぜか敗れた源頼朝のほうが人気が出るという、逆転現象が起きてしまいます。平清盛が活躍したのは、今から850年前の平安時代で、当時は武士が台頭してきた時代でもありました。農民の中に、領地を守るために武術の鍛錬をする者が現れたのが、武士のはじまりとされています。

 

当時、政治の中心は天皇や貴族だったので、武士は身分が低く、用心棒のような扱いを受けていました。普段は軽視される武士も、争いが起こると頼りにされました。そこで武士たちは、自らが持つ武力を、もっと有効に使えばいいことに気づきます。やがて武士は、貴族をもしのぐようになっていきます。その武士の頂点に立つのが清盛でした。

海賊を制圧

清盛が勢力を持つようになったのは、朝廷から海賊の取り締まりを命じられたことが、きっかけでした。海賊を制圧した清盛は、瀬戸内海を支配する権利を与えられます。これを足掛かりに、清盛は西へと勢力を拡大させていきます。当時、清盛と覇権を争っていたのが、源義朝です。義朝は、平氏と対立する源氏のトップに君臨する人物でした。1159年、平氏と源氏が激突して、平治の乱が勃発します。

 

その結果、天皇を味方につけることに成功した、清盛が勝利します。義朝は殺され、嫡男の頼朝は伊豆に流されて、ついに清盛が武士の頂点に立ちました。その後、清盛は太政大臣の地位まで上り詰め、政治の実権を握ります。ここまでくると、すべては清盛の思うがままでした。清盛は、一族を重要な役職につけることに成功し、平氏の全盛期を迎えます。

1955年宮崎県生まれ。明治学院大学文学部英文学科卒業。システムエンジニア歴25年。フリーライター歴15年。初期の頃は雑誌など紙媒体を中心に、現在はWeb記事を中心に執筆。執筆記事数は7000本を超える。
サブカルチャー、ムック本などのほか、時事ニュースやコラム記事の執筆もある。歴史が好きで、幕末史に独自の見解を持つ。大正時代、昭和初期の歴史にも興味があり、誰も書かなかった近代史を書きたいとの構想がある。
著書:
鹿児島あるある(TOブックス)
勝手に現代風にアレンジしたことわざ辞典(三交社)

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