医師の心強い味方でもあった「与謝野晶子」が患った厄介な病気 (※画像はイメージです/PIXTA)

与謝野晶子は、「みだれ髪」などの歌集で有名な文学者です。しかし一方で、女性の社会進出を訴えたり、政府の感染症対策を批判したりするなど、多方面でマルチな活躍を見せています。とくに感染症対策に対する痛烈な批判は、医師にとって心強い味方ではなかったでしょうか。この与謝野晶子とは、どんな人物だったのでしょうか。またここでは、晩年に彼女を悩ませた病気についても解説します。

与謝野晶子の生い立ち

与謝野晶子は、明治11年(1878)12月7日、現在の大阪府堺市に生まれました。家業は老舗和菓子店でしたが、没落しかけていたため、生活は困窮していました。晶子は9歳で漢学塾に入り、琴や三味線を習います。その後、堺市立堺女学校に進んで古典文学に親しみ、源氏物語などを読んでいます。のちに晶子は、源氏物語の全訳に挑みますが、そのきっかけはここにあったのかもしれません。

 

20歳頃から和歌を投稿するようになり、明治33年(1900)年に、歌会で知り合った与謝野鉄幹と、不倫関係になります。その後みだれ髪を発行し、のちに鉄幹と結婚して、12人の子供をもうけました。

 

与謝野鉄幹の収入が不安定だったため、家計を助けるために次々と歌集を発行して、5万首にもおよぶ歌を詠みました。歌を詠むかたわら、評論活動や女性解放運動にも参加するなど、歌人らしからぬ面を見せ始めたのはこの頃からです。

 

昭和10年(1935)3月26日、夫の与謝野鉄幹が死去します。最愛の人の死にショックを受け、与謝野晶子はしばらく筆が止まってしまいました。ちょうど源氏物語を全訳しているところで、晶子自身も心臓を悪くしていた時期でしたが、すぐに持ち前のバイタリティで乗り切ります。昭和12年(1937)3月に脳溢血に見舞われますが、幸いにも軽度だったため、1カ月程度の入院で復帰できました。

 

その後、「新新訳源氏物語」が刊行され、昭和14年(1939)9月に全6巻を完成させました。源氏物語全訳の構想から、実に40年近い年月をかけて、完成したものでした。ライフワークともいうべき全訳を終えて安心したのか、晶子は急激に体力が衰えていきます。

 

そして、昭和15年(1940)5月、2度目の脳溢血を起こして右半身不随となり、昭和17年(1942)1月4日に意識不明に陥ります。さらに、同年5月29日に狭心症と尿毒症を併発して、63歳で死去しました。エネルギッシュで、情熱的な歌を数多く詠んだ与謝野晶子は、東京の多磨霊園に眠っています。また、晶子の生まれ故郷の大阪府堺市では、命日に「白桜忌(はくおうき)」という法要がいとなまれています。

スペイン風邪で政府の対策を批判

今から100年ほど前の1918年に、大流行したスペイン風邪の死者は、世界中で4千万人とも1億人とも言われています。このときの政府の対策に対して、与謝野晶子は「感冒の床から」と題した評論で、「なぜ人が密集する場所を一時休業にしないのか」と、苦言を呈しています。1918年といえば、米騒動が起きた年でもあります。

 

この米騒動に対して政府は、主な都市で5人以上集まることを禁じたのに、なぜかスペイン風邪の感染拡大防止では、多くの人が密集する場所を、一時休業にしなかったのです。晶子は人が密集する場所として、学校や工場などを挙げています。米騒動で5人以上集まるのを禁止したのは、暴動を恐れてのことでした。政府は、暴動対策はできても感染対策はできないと、晶子は批判したのです。

 

ついでに、米騒動で政府が物価の高騰を放置したため、市民の生活が困窮したことにも触れ、「寺内内閣が天下の器ではないことが明らかになった」と、痛烈に皮肉っています。このように、与謝野晶子は歌人でありながら、政府の失策を批判する思想家でもあったのです。その頃は今と違って、政府を批判するのは、かなり勇気のいることでした。政府を批判すれば、検挙されて獄中に投じられることも、少なくなかったのです。

晶子を突き動かすもの

歌人でありながら、獄中に投じられることもいとわず、評論活動を展開する晶子のエネルギーは、どこからくるのでしょうか。1912年、晶子は夫の与謝野鉄幹と一緒に、ヨーロッパを外遊していました。ヨーロッパは日本とは違って、当時すでに男女平等でしたから、晶子はこれに触発されたのでしょう。

 

このときの体験が原動力になって、評論活動や思想活動につながっていったようです。まだスペイン風邪が猛威を振るっていた1919年には、「婦人も参政権を要求す」という評論を発表し、男女平等の参政権を主張しました。日本で婦人参政権が認められたのは、第二次世界大戦後でしたから、それより26年も前に、晶子はこのような評論をしていたのです。

昔からあった反骨精神

晶子は20代の頃から、体制批判をしていました。明治37年(1904)、晶子は「君死にたまふことなかれ」を、「明星」誌上に発表しています。これは、日露戦争に召集され、戦場で戦う弟を想って詠んだものです。その後、晶子の弟は無事に戦地から帰還しましたが、「君死にたまふことなかれ」には、痛烈な体制批判が込められていました。なんと、この歌の3連目には、「すめらみことは戦いに おおみずからは出でまさね」と詠まれているのです。これは、「天皇は戦争には行かない」という意味です。

 

つまり、「戦争を指揮する天皇自身は、戦場に行くことはない。それなのに、なぜ私の弟が行かねばならないのか」という過激な発言なのです。当時は今とは違って、天皇陛下の名前を口にすることさえ、はばかられる時代でした。もし口にする場合は、直立不動の姿勢になって、「畏れ多くも天皇陛下にあらせられましては……」と、言わなければならなかったのです。

 

そんな時代にあって、このような批判をするのは、命懸けといっても、少しも大げさではありません。幕末の志士も含め、いつの時代であっても時代を変えるということは、自らの命をかけて闘う、ということなのかもしれませんね。もちろん、与謝野晶子以外に、このような体制批判を口にした人物は、ひとりもいないでしょう。それを晶子はわずか26歳で、堂々と誌上に発表しているのですから、並みの女性ではありません。与謝野晶子に惹かれる人は、彼女が詠む歌が好きなだけでなく、その生き様にも共感を覚えるのでしょう。
 

 

1955年宮崎県生まれ。明治学院大学文学部英文学科卒業。システムエンジニア歴25年。フリーライター歴15年。初期の頃は雑誌など紙媒体を中心に、現在はWeb記事を中心に執筆。執筆記事数は7000本を超える。
サブカルチャー、ムック本などのほか、時事ニュースやコラム記事の執筆もある。歴史が好きで、幕末史に独自の見解を持つ。大正時代、昭和初期の歴史にも興味があり、誰も書かなかった近代史を書きたいとの構想がある。
著書:
鹿児島あるある(TOブックス)
勝手に現代風にアレンジしたことわざ辞典(三交社)

著者紹介

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