(※画像はイメージです/PIXTA)

本人に病気のことを話すのは可哀想だという家族もいます。もちろん、なかには「何も知らないでぽっくり逝きたい」と言う患者もいますが、身内や家族のあいだで隠し事があると、のちのちの不和の原因になります。それはなぜでしょうか。※本連載は中村明澄著『「在宅死」という選択』(大和書房)より一部を抜粋し、再編集した原稿です。

「現実を受け入れること」と「諦めること」

■死は誰のせいでもない

 

とても残念ですが、最後の最後まで、亡くなったのは医療者のせいだとおっしゃるご家族もいます。

 

「うちの父の病気が治らないのは、先生が早くみつけてくれなかったからだ」「もっとできる治療法があったはずなのに……」という感情から逃れられない方たちです。

 

大切な人の死を目の前にして、誰かのせいにしないとやっていられないという気持ちが湧いてしまうのは自然なことだと思います。一時的な防御反応であれば、仕方がありません。

 

ただ、そのネガティブな気持ちが長引くと、ご家族も私たち医療者も苦しくなります。

 

死は誰のせいでもありません。どう頑張っても治らない病気はありますし、老衰や認知症は誰にも止めることができません。

 

頭ではわかっているけれど、気持ちがついていかないという方もいらっしゃるでしょう。けれども医療者を恨んだり、過去の治療を疑って資料をひっくり返してみても、何の解決策にもなりません。

 

それよりも、貴重な最期の時間を、いかに有意義に過ごすかに気持ちを切り替えて考えたほうが、ご本人もご家族もずっと救われるはずです。

 

■現実を受け入れることは諦めじゃない

 

もちろん、希望を捨てなきゃいけないと言っているわけではありません。

 

もしかしたら新薬が見つかって、奇跡的に助かることを祈る気持ちがあるのは当然のことです。ただ、現実を受け入れることと、諦めることはけっして同義ではありません。

 

実際に死があと1か月ほどに迫っている場合、希望を持ちつつも、現実を受け入れて残った時間を大切に過ごせたほうが、みんなが幸せになれます。

 

いつまでも病気を誰かのせいにして引きずると、負の感情に負けて前向きになれず、苦しくなるばかりです。

 

残りの時間を受け入れたご家族は、とてもラクになります。「先生、今日は夫がたいやきを食べたいというから、買ってきたら一口食べてくれたんです」とうれしそうに報告してくださる方もいます。「今日は何を食べたいって言うかしら」とウキウキして残った時間を大切に過ごしているご家族の姿は、医療者にとっても救いです。

 

一方、「こんなはずじゃなかった。もっとリハビリさせればいいのに。もうすぐ死ぬかもしれないなんて、縁起でもないことを言うな」と、医療者に強くあたる方もいらっしゃいます。

 

どちらが幸せかは一目瞭然でしょう。

 

達観してほしいと言っているわけではありません。ただ、どんなに死にたくないと思っても、やはり死からは逃れられないのが人間です。誰かを責めて不満をぶつけたところで、現状は変わりません。

 

「どうしてこんなふうになってしまったのか」と嘆くよりも、受け入れて最期のひとときを充実させてほしいと願っています。

 

そうすることで、最期に「ああ、よかったね」と思える瞬間を迎えることができます。そして最期の時間を大切に過ごせると、実際にご本人が旅立ったあと、ご家族も穏やかな気持ちで死を受け入れることができるのです。

 

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