(※写真はイメージです/PIXTA)

小児科医である大宜見義夫氏の著書『爆走小児科医の人生雑記帳』より一部を抜粋・再編集し、子どもたちとの心の触れ合いを紹介します。

口を開いた緘黙(かんもく)少年

Y君が場面緘黙症(選択性緘黙症)の疑いで受診したのは、小学三年生のときであった。場面緘黙症とは家庭では普通にしゃべれるのに、学校や屋外では不安や緊張や過敏さなどから言葉が出なくなる状態をいう。

 

Y君は家で普通にしゃべっていたので、学校では全くしゃべれないとは思いもしなかった母親は、家庭訪問で担任から「Y君はおうちではお話ししますか」と聞かれびっくりした。そう言えば、友達からも「Y君、おうちで話すの?」と聞かれたことがあった。

 

家ではおしゃべりなY君が学校では笑うこともなく、休み時間も一人ぼっちで過ごしていることを知り、母親は愕然とした。事情を知らない別の先生が、しゃべれないY君を教壇の前に立たせ、何度も挨拶を強いたこともあったらしい。

 

のちの授業参観で、休み時間、乱暴な子に胸ぐらをつかまれ壁に押しつけられ「言ってみれ、言ってみれ」と発語を強いられる場面にも遭遇した。受診を重ねるうちにY君には緘黙のほかに、自閉症の特性を有することが明らかになった。

 

幼少期は一人遊びが多く、水遊びや砂遊びに熱中し、公園など広い場所では同じ所を何回もくるくる回ったり、いきなりどこかへ突っ走って行方不明になったりした。

 

母親に自閉症と併存する場面緘黙症である可能性を伝え、心理検査で診断を確定した。何度目かの診察の際、頃合いを見て、Y君にメッセージを伝えた。

 

「君はムリしてしゃべらなくていい。君は何も悪くない……。おそらく耳から入る音の神経とおしゃべりをする声の神経との間のスイッチがつながっていないためなのだと思う。君が悪いわけではない。両方のスイッチがつながってないだけなんだ。焦らなくていい。つながるのを待とう……」

 

受診を重ねるうち、緊張が和らぎ、こちらの冗談に笑顔をみせ、質問にも頷いて答えるようになった。小学三年の三学期末、Y君に「好きな科目は何?」と聞いた時、Y君は母親の耳元に顔をよせ何やら耳打ちし、母親を介して答えようとした。その一瞬をとらえ、私も座ったまま二人の方に椅子を滑らせ、右手を耳に当て、おどけた格好でY君の声を聞き取ろうとする仕草をやってみせた。そのおどけぶりにY君が吹き出した。

 

以来、Y君が主治医の質問に答えようと母親に耳打ちするたびに、すかさず私も右手を耳にかざし椅子を滑らせる仕草をおもしろおかしく繰り返した。

 

このおどけたやりとりがきっかけとなり、まじめモードがお笑いモードに変貌した。

 

それから一年たったある日、こちらの質問にうなずきや母親に耳打ちする形で応じていたY君が、思わず言葉を発するハプニングが起きた。

ついに…不機嫌そうに言葉を放った!

その日、診察室で母親が、Y君が今、パラパラ漫画の動画作りにはまっている旨を話していたところ、Y君がいきなり不機嫌そうに

 

「はまってない!」

 

と強い口調で言葉を発したのだ。意図せぬうっかり発言をきっかけに言葉が少しずつ出るようになった。

 

受診のたびに会話は増え、返事までの応答時間も早まっていった。こんなやりとりもできるようになった。

 

「デイケア(放課後児童デイケア)行っている?」「行っている」

「そこでは何している?」「宿題している」

「デイケアではピンポンもやっているの?」「ピンポンって知らない……」(今の子にはピンポンのことを卓球と言わないと通じなかった。)

 

別の日に、

 

「鉄腕アトムって知っている?」「知らないが教科書にあった。足から火を出している」

 

面白がるテレビ番組を母親に聞くと、チャップリンのパントマイムをあげた。なるほどとうなずけた。応答が進むうちに自己洞察を深める母子の会話も増えていった。

 

あるとき、母親に

 

「こうなったのは、埼玉にいたせい?」

 

と聞いたという。自分のふがいなさの原因を幼少期を県外で過ごした転勤生活のせいではないかと思っているらしかった。

 

小学五年生になると、学校担任との相性がよいこともあって小声ながら言葉を交わせるようになった。言葉は交わせないもののクラスメイトとオセロをやれるようにもなった。

 

小学六年になると、母親と距離がおけるようになり、診察室に一人で入り、話せるようになった。

 

「家では一人でいても苦にならない」「外出したいとは思わない」「人混みは苦手で落ち着かなくなる」「家ではユーチューブ見ることとマインクラフト(ブロックを用いて建造物を作りあげるゲームの一種)が好き」とも言った。

 

その日の診察の最後に私はY君にこうつけ加えた。

 

「ここの病院には君のように人前ではうまくしゃべれない子がたくさん来ている。その中で君は一番先頭を走るトップランナーだ。多くの後輩にとって君は希望の星なのだ……」

 

Y君は嬉しげにうつむいた。

母親すら知らなかった…Y君の衝撃事実

小学六年の秋、修学旅行に参加できた。和室の部屋に五人で寝たが、いびきのひどい子がいて全員ほとんど眠れなかったのに、当のいびき名人から

 

「何で眠れなかったの?」

 

と不思議がられた話を母親におもしろおかしく語ったという。

 

その際、母親は本人から驚くべき事実を聞いた。Y君はクラスメイトの顔や表情が読めないのだという。髪型、背丈、声の調子、服装などで判別しているとのことだった。修学旅行の写真だけを見ても友人の顔を特定できないという。

 

そこでY君に聞いてみた。

 

「君は友達の顔を覚えるのが苦手と聞いたが、髪や頭を隠すとわからなくなるの」「わからなくなる」

「話は変わるが、今、先生が話していることわかる?」「半分、わかる……」

「学校でも担任の先生の話もわからないの?」「半分、わかる……」

「友達の言葉は分かる?」「だいたいわかる」

「大勢の人がいる中にいると、人の話わかる?」「わからない」

「君がしゃべらないのは、言葉を発する神経回路が働かないことにあるが、相手の人の言葉の意味が分からないから言葉が出ないこともあるのかな?」「わからない……」

 

驚きの変化が起きていた。二年の間隔をおいて筆談を用いて行った知能検査の結果が境界領域から普通領域に大幅にアップしていたのだ。

 

通常、知能検査の数値が二年で大幅にアップすることは考えにくい。人とのかかわりや体験学習を通じて、言葉による推理力・思考力・表現能力が大幅にアップしたからではないかと思われた。

 

中学進学を控えた小学六年の三学期末、卒業式で生徒各自が行う一言スピーチについて担任から母親に

 

「誰かに代弁させますか?」

 

の電話があった。Y君は母親に

 

「自分でやる」

 

と決意を固めた。卒業式当日の自己紹介のスピーチでY君は

 

「……中学生になったら今まで以上にがんばる……」

 

と、名前の部分は詰まって出なかったものの見事に言い切った。

 

事情を知った別の保護者から母親へ「すばらしかった」という賞賛のメッセージが送られた。

 

今、Y君は中学生として新たな一歩を踏み出している。

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大宜見義夫(おおぎみ よしお)

 

1939年9月 沖縄県那覇市で生まれる
1964年 名古屋大学医学部卒業
北海道大学医学部大学院に進み小児科学を専攻
1987年 県立南部病院勤務を経ておおぎみクリニックを開設
2010年 おおぎみクリニックを閉院
現在 医療法人八重瀬会同仁病院にて非常勤勤務
医学博士
日本小児科学会専門医 日本心身医学会認定 小児診療「小児科」専門医
日本東洋医学会専門医 日本小児心身医学会認定医
子どものこころ専門医
沖縄エッセイストクラブ会員
著書:「シルクロード爆走記」(朝日新聞社、1976年)
「こどもたちのカルテ」(メディサイエンス社、1985年。同年沖縄タイムス出版文化賞受賞)
「耳ぶくろ ’83年版ベスト・エッセイ集」(日本エッセイスト・クラブ編、文藝春秋、1983年「野次馬人門」が収載)

※本記事は幻冬舎ゴールドライフオンラインの連載の書籍『爆走小児科医の人生雑記帳』(幻冬舎MC)より一部を抜粋したものです。最新の法令等には対応していない場合がございますので、あらかじめご了承ください。
※「障害」を医学用語としてとらえ、漢字表記としています。

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