驚愕!23万人の検疫を2ヵ月で実現した医師兼政治家の日本人 (※画像はイメージです/PIXTA)

明治27年(1894)に日清戦争が勃発すると、大量の日本兵が中国に送り込まれました。当時中国ではコレラが大流行しており、罹患した日本兵が帰還すると、日本各地でコレラが蔓延してしまいます。そこで、帰還兵の検疫を迅速に行う必要がありました。この重要な任務を担ったのが、政治家であり医師でもある後藤新平でした。

後藤新平と検疫

日清戦争当時、大陸から帰還した労働者からと思われる感染症が、広島市で大流行したことがあります。広島市では、明治27年(1894)には赤痢、明治28年(1895)にはコレラ患者が、大量に発生しています。このように、労働者から、日本に感染症が持ち込まれたことを重く見た軍部は、日清戦争終結後、大量に帰還する兵士の検疫体制を急ぎました。

 

この検疫の、総責任者に任命されたのが後藤新平です。後藤新平といえば、満鉄総裁として有名ですが、その前に、23万人もの帰還兵の検疫を行ったことは、あまり知られていません。明治10年(1877)、後藤は西南戦争でコレラ患者の治療にあたっていました。戦場下という、過酷な状況での治療経験を買われ、検疫の総責任者に選ばれたのかもしれません。

 

まず後藤が着手したのは、検疫施設の建設でした。広島県や山口県、大阪府の離島に、400もの検疫所をわずか2ヵ月で作りました。そこへ、232,000人余りの兵士を送り込んで、検疫を行ったのです。離島を選んだのは、万が一の場合に、感染が広がらないためだったのでしょう。中国から、帰還兵を乗せた船が到着すると、兵士が上陸する前に医師が乗り込んで、健康な人、罹患の疑いのある人、罹患者に分けます。

 

もし罹患者が1人でも出ると、軍馬まで消毒したといいますから、その徹底ぶりがわかります。もっとも、消毒が不完全な状態で次の帰還兵を運ぶと、船内で多くの兵士が罹患するおそれがあるので、徹底した消毒が必要でした。

 

検疫所では、健康と診断された兵士でも、衣類や持ち物を消毒し、兵士は消毒液を薄めた風呂に20分入らせました。健康な人でもここまで消毒するのですから、罹患の疑いのある人や罹患者は、厳重に隔離して消毒や治療などの処置が行われました。

後藤でなければできなかった

日清戦争は日本が勝ちましたが、戦場ではコレラが大流行していたため、戦闘だけでなく、コレラで命を落とす兵士も、少なくありませんでした。軍部は、このことを重く捉えていました。戦争が終わったら、兵士が続々と帰還します。しかし、コレラにかかっているかもしれない兵士を、そのまま帰国させるわけにはいきません。そこで検疫所を作ったわけですが、戦争で勝利して凱旋する兵士を、検疫所で消毒するのは、容易なことではありませんでした。

 

「消毒とはどういうことか。侮辱する気か?」という声が、多くの兵士から上がりました。そこで後藤は、当時の軍のトップであった小松宮彰仁親王に、まず消毒を受けてもらうことにしたのです。親王は、後藤の申し出を快諾してくれました。皇族でしかも軍のトップが消毒すれば、一般の兵士が拒否するわけにはいきません。こうして、後藤のアイデアが功を奏して、検疫はスムーズに進んでいきました。

後藤新平の人物像

安政4年(1857)、後藤は陸中国肝沢郡塩釜村(現在の岩手県奥州市)に生まれました。子供の頃から成績優秀で、明治7年(1874)に藩校を経て、福島県の須賀川医学校に進学し、明治9年(1876)に愛知県病院で、医師としての人生が始まります。「国家の医師になりたい」後藤はこのように考えていました。これは、個人の病気を診察する医師ではなく、国家の病気を診断する医師になりたいという意味です。

 

国家を人になぞらえて、悪の部分を正したいということでしょう。しかし、後藤の人生に、さまざまな難問が降りかかります。後藤の大叔父にあたる蘭学者・高野長英が、幕府の鎖国政策を批判したため、謀反人として捕らえられことから、後藤の運命が一変します。欧州列藩同盟が戊辰戦争で官軍に敗れると、後藤の生家も朝敵と見なされ、武家から平民の身分に落とされてしまいます。後藤の人生は、まさにどん底からのスタートだったのです。

役人宅に住み込みで働く

しかし、悪いことばかりでは、ありませんでした。後藤は肥後熊本藩出身の大参事(副知事)安場保和宅に、住み込みで働く仕事を得ます。ここから、後藤の人生が好転していきました。後藤の仕事は、玄関番や雑用などの下働きでしたが、熱心に作業する姿が認められ、「あの少年には、みどころがある。きっと大物になるだろう」安場はそう言って後藤を引き立て、のちに自分の娘と結婚させます。

 

後藤は安場から、「政治は、万民のためを判断基準とする」という教えを受け、実行に移します。関東大震災の際、後藤は自分の屋敷を、被災した人の避難所として開放していますが、このように「人のために尽くす心」は、安場と知遇を得るによって、育まれたものでした。

 

その後、若くして愛知県病院長となった後藤は、自由党総裁の板垣退助が襲われた際に、傷の手当てをしています。このとき、板垣は後藤の能力を見抜いて、彼が政治家でないことを、残念がったという逸話があります。「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そしてむくいを求めぬよう」後藤は常に、こう言っていました。そのため、後藤が死去すると、資産らしい資産は、何も残っていなかったということです。昭和4年(1929)、後藤は実りの多い73年の人生を閉じました。
 

 

1955年宮崎県生まれ。明治学院大学文学部英文学科卒業。システムエンジニア歴25年。フリーライター歴15年。初期の頃は雑誌など紙媒体を中心に、現在はWeb記事を中心に執筆。執筆記事数は7000本を超える。
サブカルチャー、ムック本などのほか、時事ニュースやコラム記事の執筆もある。歴史が好きで、幕末史に独自の見解を持つ。大正時代、昭和初期の歴史にも興味があり、誰も書かなかった近代史を書きたいとの構想がある。
著書:
鹿児島あるある(TOブックス)
勝手に現代風にアレンジしたことわざ辞典(三交社)

著者紹介

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