元寇を撃破も32歳で…「北条時宗の死因」を肖像画から検証 (※画像はイメージです/PIXTA)

鎌倉幕府の時代に、日本は2度にわたって蒙古軍に攻められました。時の執権北条時宗は、蒙古軍を撃退して日本を救いましたが、英雄扱いされることはありませんでした。これはなぜでしょうか。また、蒙古はなぜ2度も日本を攻めたのか、なぜ3度目はなかったのか、謎が深まります。

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蒙古の隆盛と日本攻撃の謎

1206年、チンギス・ハンに始まった蒙古帝国は、中央アジアからインド北西部、南ロシアにまたがる、広大な帝国にのし上がりました。チンギス・ハンの孫にあたるフビライ・ハンは、首都を大都(北京)に移し、日本をも傘下におさめようと、1268年、日本に国書を送りました。

 

当時鎌倉幕府の執権を務めていたのは、若干18歳の北条時宗です。時宗は、国書の内容が無礼で高圧的だという理由で、返書を送りませんでした。翌年、再び国書が届くも無視し、蒙古の攻撃に備えて、九州の防衛を強化します。世界に冠たる蒙古帝国が、小国日本に無視されて、黙っているはずがありません。

 

1274年、フビライは日本攻撃の命令を下し、文永の役が起こりました。押し寄せた蒙古軍は約4万、それに対して、迎え撃つ幕府軍はわずか5千でした。数で劣る鎌倉軍は押され気味でしたが、日没とともに蒙古軍が船に戻ったところ、その夜暴風雨が起こり、蒙古軍は壊滅します。人々は、これを神風と呼びました。

 

これであきらめない蒙古軍は、2度目の攻撃を仕掛けます。1281年の弘安の役では、10数万の大軍が押し寄せました。蒙古軍が優勢ながら、鎌倉武士も果敢に戦い、蒙古軍は海上に留まらざるを得ませんでした。このとき、再び神風が吹いて、蒙古の船はほとんど海に沈んでしまったのです。

 

そのため、蒙古襲来では神風ばかりが話題になり、わずか20歳そこそこで、大国相手に戦いの指揮を執った、時宗の功績が称えられることはありませんでした。この戦いののち、鎌倉幕府は土台から揺らぐことになります。

 

通常の戦いとは違って、新しい領土を得られたわけではないので、鎌倉幕府は戦いに勝ったものの、勇敢に戦った鎌倉武士に対して、恩賞を与えることはできませんでした。2度の蒙古との戦いで、資金を使い果たした鎌倉幕府には、恩賞を出す余裕がなかったのです。朝廷や公家たちも、勝ったのは神風のおかげとして、武士たちの活躍を評価しようとしませんでした。そんな中、時宗は32歳の若さで死亡しましたが、死因は心臓病ではないかと言われています。

度重なる幸運

ちなみに、日本を襲った蒙古軍は、蒙古の正規軍ではありません。フビライに命じられた朝鮮の軍隊が、日本を攻撃したのです。当時、朝鮮は国内に大きな問題を抱えていて、日本を攻撃するどころではありませんでした。しかし、フビライの命令を無視することはできないので、仕方なく日本を攻撃しました。つまり、このときの蒙古軍は、やる気のない軍隊だったのです。もし蒙古の精鋭部隊が来ていたら、日本はどうなったかわかりません。

 

ちなみに、2度の日本攻撃ののち、蒙古はベトナムと衝突したため、そちらに軍隊を投入しなければならず、日本を攻撃するどころではなくなります。神風のほかに、このような幸運が重なって、日本はそれ以上攻撃されることはなかったのです。

時宗の死因

時宗の死因は、結核か心臓病の可能性があると言われています。しかし、時宗の肖像画を見ると、ふっくらした体格なので、結核の可能性は低いだろうと見られています。なぜなら、結核が進行すると痩せるからです。

 

糖尿病のような生活習慣病を患い、精神的なストレスがあると、糖尿病が悪化して心臓血管系に、ダメージを与える可能性があります。時宗は2度の蒙古軍との戦いと、その後の戦後処理で、相当なストレスを抱えていたものと推察されるので、それが遠因となって、32歳の若さで死亡したのでしょう。

時宗は日本を危うくした張本人

時宗は蒙古軍と戦い、日本を勝利に導いたとされていますが、これとは逆の評価もあります。趙良弼(ちょうりょうひつ)という蒙古の使者が、蒙古襲来の前に1年ほど、日本に滞在して本国にレポートを送っています。そのレポートには、「日本という国は狭い。そして、ろくな作物が育たず、豊かではない。人間も野蛮で、日本を征服しても、何の見返りもありません。だから、やめるべきです」と書かれていました。このような現地からのレポートがあるのに、なぜフビライは日本を攻撃したのかというと、国書を無視した以外に理由は考えられません。

 

攻撃の前に蒙古から鎌倉幕府に送られた国書は、驚くほど丁寧なものだったと言われています。そこには、日本を攻撃する意図は読み取れません。それなのに、時宗は2度送られた国書を、2度とも無視したのです。これがフビライを怒らせ、日本攻撃につながったのは明らかでしょう。もっとも、国書が丁寧でも、「衣の下に鎧を着ている」こともあるのが外交です。時宗はそこまで読み取って、無視したのかもしれません。ちなみに、最初に蒙古が襲来した文永の役は、威力偵察だったと見られています。

 

威力偵察とは、敵と遭遇しても、帰還できるだけの規模の部隊を送り、敵の状況を偵察するものです。だから、文永の役では鎌倉軍と少し交戦しただけで、すぐ退却したのです。別に、鎌倉武士が強かったから逃げたわけではなく、最初から、早く帰る予定だったのではないかと見られています。2度目の弘安の役の前に、フビライは杜世忠(とせいちゅう)をはじめとする、5名の使者を日本に送っています。しかし、何を考えたのか、時宗は5人の使者全員の首をはねてしまいました。そのため、激怒したフビライが、10万人以上の軍隊を送ってきたわけです。つまり、日本を窮地に陥れたのは、ほかでもない時宗本人だったことになります。
 

 

 

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1955年宮崎県生まれ。明治学院大学文学部英文学科卒業。システムエンジニア歴25年。フリーライター歴15年。初期の頃は雑誌など紙媒体を中心に、現在はWeb記事を中心に執筆。執筆記事数は7000本を超える。
サブカルチャー、ムック本などのほか、時事ニュースやコラム記事の執筆もある。歴史が好きで、幕末史に独自の見解を持つ。大正時代、昭和初期の歴史にも興味があり、誰も書かなかった近代史を書きたいとの構想がある。
著書:
鹿児島あるある(TOブックス)
勝手に現代風にアレンジしたことわざ辞典(三交社)

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