トイレで脳出血を起こしたか…「上杉謙信の死因」を検証する (※画像はイメージです/PIXTA)

上杉謙信といえば、戦国武将として有名で、大河ドラマや時代劇にもよく登場します。謙信が長生きしていれば、もしかすると、天下統一を成し遂げたのではないかと、言われるほどの名将なので、早すぎる死が悔やまれます。では、上杉謙信はどうして亡くなったのでしょうか

上杉謙信が倒れた場所

上杉謙信は、高血圧や生活習慣病を患っており、トイレで脳出血を起こして、亡くなったというのが定説です。謙信は大の酒好きで、馬に乗っていても酒が飲めるように、「馬上杯(ばじょうはい)」という、直径12センチもある盃を作らせたと言われています。このように、「のんべえ」であったことも、謙信の命を縮めた原因の1つかもしれません。

 

しかも、謙信の酒の肴は干物や梅干し、塩や味噌だったと言いますから、完全に塩分の摂りすぎでしょう。しかし、現代では塩分の摂り過ぎが、命を縮めるのは常識ですが、当時はそんな知識はなかったようです。というのは、同世代の健康マニアと言われる徳川家康でさえ、塩分過多の食事をしていたと言われているからです。だから、塩分が健康に悪いなど、謙信が知るはずもないのです。

 

ただし、謙信がトイレで亡くなったという点に関しては、誤りである可能性があります。謙信は厠で脳出血を起こして意識を失い、遺言を残す暇もなかったと言われています。謙信が倒れたのは、天正6年(1578)3月9日の正午頃でした。そして4日後に死亡しますが、まだ49歳という若さでした。しかし、当時の資料を見ると、倒れた場所は厠とは断定できないようです。

 

武田方の軍記「甲陽軍鑑」には、「寅の三月九日に謙信閑所にて煩出し、五日煩い」とあります。この「閑所」を江戸時代の軍学者・宇佐美定祐が、「厠」の意味と解釈したために、「トイレで死んだ」という説が流れたようです。しかし、閑所は「静かな空間」という意味なので、厠だけでなく書斎なども該当します。つまり、今となっては厠で死んだのか、書斎などの静かな部屋だったのか謎なのです。

過去にも脳出血していた

高血圧は、サイレントキラーとも言われ、静かに進行して血管を蝕んでいく恐ろしい病気です。謙信は、40歳の頃にも軽い脳出血を起こしており、左足に後遺症が残っていました。

 

しかし、医学の知識が乏しかった当時のことですから、その原因が高血圧であることはわからなかったでしょう。現代であれば、40歳の頃に脳出血を起こしていれば、それなりのケアをしますから、再度脳出血する可能性は低くなり、49歳で早死にすることはなかったかもしれません。

脳出血とは

では、謙信が起こした脳出血とは、どんな病気なのでしょうか。脳出血は脳卒中の症状の1つで、脳の血管から出血した血液が固まり、脳細胞を圧迫して、さまざまな障害を引き起こす病気です。脳出血は激しい頭痛を伴うことが多く、半身まひなどの障害が残ることも少なくありません。

 

脳の血管から出血するのは、高血圧が原因です。血液を送る圧力が高すぎると、血管が持ちこたえられず、裂け目ができて破れてしまい、そこから出血します。高血圧と同時に動脈硬化を併発している場合も多く、動脈が硬化することによって、血管壁がもろくなり破れやすくなります。そのため、脳出血を予防するには血圧を下げ、動脈を硬化させないことが大切です。

死因は虫気という説もある

虫気(むしけ)とは、寄生虫などによって起こる、腹痛やひきつけ、かんしゃくなどを指します。昔は腹の中に住む三尸(さんし)によって、腹痛などの病気が起こるとされていました。現代の解釈では、虫気とは寄生虫の感染によって起こる、腹痛のことと考えられており、最悪の場合体内の臓器が正常に働かなくなり、命を落とす場合もあります。

 

謙信を見舞った上杉景勝が、「謙信は虫気であった」と手紙に書き残していることから、腹痛によって死亡したとも考えられています。ただし、当時「虫気」と呼ばれる症状の多くは、脳内に原因がある病気の可能性もあるようです。そうなると、謙信の死因は通説のように、脳出血の可能性も否定できないことになります。謙信の死因は脳出血なのか腹痛なのか、さらなる検証が待たれます。

敵に塩を送った逸話は本当か

「敵に塩を送る」という言葉がありますが、この語源となったのは、塩が不足して困っている武田方陣営に、謙信が塩を送ったとされる逸話が元になっています。では、謙信は本当に、信玄に塩を送ったのでしょうか。結論から言いますと、謙信は武田方に塩を送っていません。

 

普通に考えても、塩がなくて弱っている敵に塩を送れば、敵が勢いづいて、味方の兵士に多大な犠牲者が出てしまいます。こんな馬鹿なことをする武将はいないでしょう。謙信が信玄に塩を送ったというエピソードは、後世に作られた「美談」です。その証拠に、謙信が信玄に塩を送ったとする史料は、どこにもありません。塩を送った「美談」が初めて歴史に登場するのは、1696年に書かれた「謙信公御年譜」です。

 

1696年には、謙信も信玄も死んでいる上に、「謙信公御年譜」には脚色が多く、信頼性に乏しい資料であることがわかっています。この美談の真相は、塩不足に悩む武田方に、業者が塩を売るのを、謙信が妨害しなかったということのようです。

 

当時は、戦国武将が、生きるか死ぬかの戦いを繰り広げていましたから、武田方が塩不足で困っていれば、そこに塩を運ぼうとする者を阻止するのが、戦略の常道です。しかし、謙信は業者が塩を送るのを妨害しませんでした。ただそれだけで、謙信は塩を送ったわけではないのです。後世にそのエピソードを脚色して、美談に仕上げたというのが真相です。
 

 

 

1955年宮崎県生まれ。明治学院大学文学部英文学科卒業。システムエンジニア歴25年。フリーライター歴15年。初期の頃は雑誌など紙媒体を中心に、現在はWeb記事を中心に執筆。執筆記事数は7000本を超える。
サブカルチャー、ムック本などのほか、時事ニュースやコラム記事の執筆もある。歴史が好きで、幕末史に独自の見解を持つ。大正時代、昭和初期の歴史にも興味があり、誰も書かなかった近代史を書きたいとの構想がある。
著書:
鹿児島あるある(TOブックス)
勝手に現代風にアレンジしたことわざ辞典(三交社)

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