(※写真はイメージです/PIXTA)

医療法人寿仁会沖縄セントラル病院理事長である大仲良一氏は著書『ひたすら病める人びとのために(上)』のなかで、昭和中期ごろに経験した、脳外科専門医院設立の過程を振り返っています。

中央脳神経外科の開業。一日の最高外来患者数752人

当時の沖縄県は、医療に携わる人材が少ないという状況にありましたが、幸いにして、看護職員、検査関係技師、事務職員、厨房スタッフなどの協力のもと、総勢二三人で賑や一な門出を迎えました。

 

開院当初から予想外の患者の受診でした。早朝八時三〇分から外来診療を始め、夕刻に外来が終了すると、その後、手術の時間です。さらには近隣のふるさと糸満までの往診と、多忙な毎日が始まりました。

 

開院から四年を迎えた頃には、その多忙さはピークとなっていました。外来廊下は、立錐の余地もないほど患者さんが大勢おられました。時には、玄関外の階段まで順番待ちの行列ができて、通行にも支障をきたすほどでした。

 

晴れた日には玄関前の広場に茣蓙を敷いて、そこに座って待っておられます。診察待ちの患者さんがいるわけですから、悠長に食事など取っているわけにはいきません。スタッフも昼食抜きで対応に追われるほどの多忙な日々でした。一日の外来患者数の最高記録、七五二人の金字塔を達成したのもその頃です。

 

この間、沖縄県は、祖国復帰後、内地に合わせてさまざまな法の導入が行われていました。医療分野でも内地標準に合わせるため、当時はまだ厚生局といっておりましたが、厚生省が定める診療報酬レセプトに合わせるための点検委員に選ばれて、毎月数日間はそれに駆り出されました。

 

また、県内に医療機関の少ないこともあって、那覇市内の先生方とともに臨番制で夜間診療所に赴き、救急患者への対応を余儀なくされて、朝から晩まで休む間もなく、医者の不養生とはまさにこのことだと、お互いにこぼしながら務めていました。こうした日々を乗り切れたのも、当時のスタッフの皆さんの献身的なご助力のおかげだと思います。

 

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大仲良一

 

沖縄県立糸満高校卒。
1935(昭和10)年沖縄県糸満市生まれ。
1955(昭和30)年日本大学教養学部修了。
1963(昭和38)年久留米大学医学部卒業。
1968(昭和43)年久留米大学医学部大学院卒業。宮崎県立日南病院脳神経外科医長。
1973(昭和48)年沖縄中央脳神経外科院長。
1978(昭和53)年沖縄キリスト教短期大学理事。沖縄セントラル病院病院長。
1994(平成6)年医療法人寿仁会理事長。

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    ※本記事は幻冬舎ゴールドライフオンラインの連載の書籍『ひたすら病める人びとのために(上)』(幻冬舎MC)より一部を抜粋したものです。最新の法令等には対応していない場合がございますので、あらかじめご了承ください。

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