いつまで続くのかわからず、「出口の見えないトンネルのなかにいるよう」とも言われる不妊治療。女医の山下真理子氏も、そんな不妊治療で子供を授かったひとりだという。どのような問題に直面し、どう向き合ってきたのか、医師の立場から語ってもらう。

32歳になる年の夏だった

「まさか、私が」

 

医師に病名を告げられたとき、それがまず最初に私の頭に浮かんだ言葉だった。

 

「そんなはずはないです」と、言い返したくなった。私にとって、それは、まさに「他人事」だった。

 

「AMH低下が原因と考えられる不妊症」

 

とあるクリニックで行われた血液検査の結果を聞きに行った私に、医師が告げた「病名」はそれだった。32歳になる年の夏だった。

 

そもそも私は、子供が早く欲しい……と強く思っていたわけではなかった。どちらかというと、子供が産まれることで、「自分のキャリアアップの妨げになる」「やりたいことができなくなる」、何より「自分の自由が奪われてしまう」と思っていた。

 

20代の前半は、医学生として忙しい毎日を送り、医師になった20代後半は、仕事が楽しくて夢中になっていた。30を目前に、駆け込みのように子供を出産して、専業主婦になったり、パートタイムの仕事に切り替えたりしていく知人たちを横目に、子育ても結婚も、自分にとっては他人事でしかなかった。

 

子供が嫌いだったわけではないし、結婚や恋愛に興味がなかったわけでもない。「いつかは私も」とは思っていた。

「来月にはもうお腹に子供がいる」と思っていた

31歳になったばかりの冬に、偶然に知り合った夫と入籍をした。交際2週間での電撃婚で、入籍したときには、子供のことを考える余裕はなく、急な環境の変化に対応するだけで精一杯で、「子供はまたいつか考えよう」ぐらいの気持ちだった。

 

美容医療に関わり続けていた仕事柄、自分の体質や栄養のことには気を遣っていたし、食事をはじめ、口に入れるものには気をつけている方だった。自分で言うのもなんだけれど、体内年齢も肌年齢も実年齢よりも若かったし、40代後半などで出産した人の話を聞いて、自分も望めばそうなれると思っていた。

 

「仕事もプライベートも思いっきり楽しんで、子育ては人生の最後でいい」

 

20代の頃はよくそんなふうに言っていた。

 

子供なんて、いつでも産めると思っていた。

 

だから、その年の年明けだっただろうか、「子供が欲しいから、そろそろ避妊をやめよう」と夫と相談して決めた時、「もう来月には妊娠しているのか」と、感慨深い気持ちになっていたぐらいだった。

 

結果、避妊をやめても、その月に妊娠することはなく、その次の月も同じだった。さらにその次の月も。

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