愛する人の献身的な介護が悲痛な思いを希望に変える
私はこの家を訪問することが苦痛になってしまいました。
それでも私はできるかぎりのリハビリを施術して、その日以降もその家に通っていたのですが、それからはしばしば「しにたい」の文字がモニターに浮かぶようになりました。とはいえ私にはリハビリ以上のことはできないので、もくもくと役割を果す日々を送りました。
ところがそんなある日、座る訓練を行ったところ、この方は初めて座った格好になれたのです。
その瞬間、隣にいた奥様の目からぽろぽろと涙がこぼれました。その涙を見たご本人も、顔をくしゃくしゃにされて声にならない声で号泣されました。
私も込み上げてくるものを堪えることができませんでした。涙をこぼしながら、それまで最も大切なことを見落としていたことに気づいたのです。
それは利用者を「愛する者」の存在とその思いです。
奥様は、たとえご主人様がどんな状態になろうとも、命ある限りは――と、そんな思いで献身的な介護をされていたのでしょう。
またこの方も奥様の涙を見て、「つらかったのは自分だけではない、妻も一緒に苦しんでいたのだ」と気づいたのでしょう。自分に対する深い愛情を確認し、自分自身の存在と役割に気づかれたのだと思います。
それ以降、この方のモニターからは一切「しにたい」という文字は見られなくなりました。
在宅のリハビリは高齢者向け…インフラは未整備状態
愛してくれる人の存在や自分を理解してくれる人の存在は、なによりも生きる希望につながる大きな力です。
そのことに気づいたとき、私の目の前にもぱっと光が差しました。
そういう存在とともに利用者がリハビリに打ち込める環境。それが在宅の意味だ。
しかし当時、在宅のリハビリは高齢者を対象としており、彼のように若く重度な方を受け入れるインフラは未整備でした。私は一生の仕事として、在宅ケアの発展に携わっていこう。そう思うに至ったのです。
その日以降、私は利用者と対峙するときは、その方を愛している人の存在と思いを感じながら、その思いを伝えるメッセンジャーとなることを心掛けるようにしました。
目の前の利用者を愛する者の思いを想像しながら、向き合っていくことが大切だということを心に刻んだのです。
二神 雅一