(※写真はイメージです/PIXTA)

経済を動かす贅沢や奢侈については、その必要性が古くから議論されてきました。「必要最低限のものだけの人生など獣同然」「個人が道徳を全うしようとすれば社会全体の公益が損なわれる」「他者への優越を示すため」などさまざまです。これら議論の詳細について、是非を問いながら山口周氏が解説します。※本連載は山口周著『ビジネスの未来』(プレジデント社)の一部を抜粋し、編集したものです。

風刺作品にみる開き直り「奢侈こそが経済を動かす」

一方で近代に至ると、続けざまに「過剰」「贅沢」「奢侈」こそが経済を動かすのだという「開き直りの主張」が盛り上がってきます。たとえば『リア王』が書かれたそのちょうど100年後、イギリスの風刺作家バーナード・マンデヴィルが1705年に出版した『蜂の寓話』は、個人の欲望こそが社会の厚生を推進する、と主張してベストセラーとなりました。

 

当時の道徳哲学者たちは同書を読んで激怒したらしいのですが、さて、いったいどのような話だったのか?

 

「マンデヴィルの蜂たちは悪徳に満ちた金持ち集団で大いに繁栄していた。蜂たちは贅沢三昧に暮らしており、1番貧乏な蜂も金持ち蜂に仕えることでお零れにあずかることができた。蜂の社会には欺瞞、羨望、嫉妬、虚栄、貪欲といった悪徳がはびこっていたが、とにかくどの蜂も食いっぱぐれるということはなかったのである。

 

ところがある日、蜂たちは不道徳な乱脈生活を恥じるようになり、道徳哲学者の忠告に耳を傾け、品行方正を目指すことにする。すると「意図せざる結果」が起きる。かつて富が存在したところに貧困がはびこり、蜂たちはことごとく職業を失っていく。誰もが借金をすぐ返すようになったので弁護士は必要なくなり、失業する。

 

全ての蜂が品行方正になったので懺悔はなくなり、聖職者も失業する。召使いは仕えるべき主人を失い、失業する。泥棒がいなくなったので監獄の番人も不要になり、失業する。個人が道徳を全うしようとすれば社会全体の公益が損なわれる。」

 

バーナード・マンデヴィル『蜂の寓話』

 

この寓話によって著者が伝えたかった教訓は副題にはっきりと書かれています。曰く「私悪すなわち公益」。マンデヴィルはすでに「ある人の支出はある人の収入である」というマクロ経済学的循環の洞察を先取りしていたのです。

 

そしてさらに18世紀の啓蒙時代を経ると「奢侈こそが経済を駆動する」という考えはより洗練されていくことになります。

 

たとえば「ドイツ歴史学派」を代表する経済学者であったヴェルナー・ゾンバルトは著書『恋愛と贅沢と資本主義』において、資本主義という経済システムを生み出し牽引したのは「贅沢」であり、その「贅沢」を推進したのが「恋愛」であるという、いささか極端な議論を展開しています。

 

「奢侈は近代資本主義の発生を、各種各様の面でうながした。たとえば奢侈は封建的な富を市民的な富(負債)に移行させるうえに、本質的な役割を果たした。」

 

ヴェルナー・ゾンバルト『恋愛と贅沢と資本主義』

 

ゾンバルトの議論で興味深いのは「奢侈」を2つに分けて考察している点です。たとえば「壮麗な聖堂を黄金で飾って神に捧げる」のと「自分のためにシルクのシャツをオーダーする」のは、どちらもともに「贅沢」には違いないが、両者には「天と地の差があることがただちに感ぜられるだろう」と指摘しています。

 

ゾンバルトによれば「2つの奢侈」のうち、近代の経済は「自分のためにシルクのシャツをオーダーする」、つまり「後者の奢侈」によって駆動されており、これを後押ししたのが「法に反して情人、恋人になった婦人」でした。

 

その代表例としてゾンバルトが挙げているのはルイ15世の愛妾だったポンパドゥル夫人、デュ・バリー夫人の2人なのですが、世界史的に見て「外れ値」と言っていいほどの超弩級的奢侈を実践したお2人が例証となっていて、いささか極論の印象をぬぐえません。

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ビジネスの未来 エコノミーにヒューマニティを取り戻す

ビジネスの未来 エコノミーにヒューマニティを取り戻す

山口 周

プレジデント社

ビジネスはその歴史的使命をすでに終えているのではないか? 21世紀を生きる私たちの課せられた仕事は、過去のノスタルジーに引きずられて終了しつつある「経済成長」というゲームに不毛な延命・蘇生措置を施すことではない…

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