社会情勢にあわせて、GDPに非物質的な産出を算入するべきだという議論があります。しかしそのようなGDPの「延命措置」に必要性はあるのでしょうか。なぜこの指標はそれほどまでに重要視されるのでしょう。GDPの問題点について解説します。※本連載は山口周著『ビジネスの未来』(プレジデント社)の一部を抜粋し、編集したものです。

GDPの問題は、アメリカのために「発明された」こと

私たちが何かを測ろうとするとき、そこには必ず「測る目的」が存在します。血圧や体重をはかるのは「健康を維持する」という目的のためですし、水質や大気の汚染度を調べるのは「環境を保全する」という目的のためです。さて、では「GDPに無形資産を含むべき」という時、それは「何のため」なのでしょうか?

 

そもそもGDPは、100年ほど前のアメリカで、世界恐慌の影響を受けて日に日におかしなことになっていく社会・経済の状況を全体として把握するという目的のために開発されたものです。

 

当時のアメリカ大統領、ハーバート・フーバーには大恐慌をなんとかするという大任がありましたが、手元にある数字は株価や鉄などの産業材の価格、それに道路輸送量などの断片的な数字だけで政策立案の立脚点になるようなデータが未整備だったのです。議会はこの状況に対応するために1932年、サイモン・クズネッツというロシア系アメリカ人を雇い、「アメリカは、どれくらい多くのモノをつくることができるか」という論点について調査を依頼します。

 

数年後にクズネッツが議会に提出した報告書には、現在の私たちがGDPと呼ぶようになる概念の基本形が提示されていました。つまり「測りたい問題が先」にあった上で「測るための指標が後」で導入された、ということです。

 

GDPの発明に関する一連の流れにおいて「問題が先、指標が後」になっていることに注意してください。ところが昨今のGDPに関する議論は往々にして「指標が先、問題が後」になってしまっています。測れるモノを測って、そこで出てきた問題を叩くという流れで思考プロセスが進んでいるのです。

 

しかし、そもそも「問題」とは「ありたい姿」と「現状の姿」とのギャップとして定義されるモノです。これをGDPの「新しい方針」に当てはめて考えれば、「ありたい姿」を描かず、従って「問題の定義」も曖昧なまま、数値を水増ししてくれそうな「指標」を拙速に組み入れようとしている感が否めません。

 

本来、私たちがやらなければならないのは、そのような「GDPの延命措置」ではなく、「人間が人間らしく生きるとはどういうことか」「より良い社会とはどのようなものか」という議論の上に、では「何を測れば、その達成の度合いが測れるのか」を考えることでしょう。経済学者をはじめとした専門家の多くはこの種の議論を非常に嫌がりますが、理由は明白で、このように抽象的で哲学的な議論のプロセスでは「専門家としての権威」を発揮できないからです。

「物質的不足」が解消された今、GDPがもつ意味とは

私たちがこれから迎える「高原の社会」では、環境や自然とのサステナブルな共生が必須のモノとして求められます。そのような社会において、もともと「どれだけのモノをつくり出せるのか」ということを明らかにするためにつくり出された指標が、いまだに政治・経済の運営の巧拙を測る上で最重要な指標となっていることには驚きを禁じ得ません。

 

物質的不足という問題を大きく抱えていた時代にあっては、「どれだけのモノを作り出したのか?」を測るGDPという指標にはそれなりの意味があったのでしょう。しかしすでに前節において説明した通り、少なくとも先進国においては、この「物質的不足」という問題は解決されてしまっています。

 

すでに遍く物質が行き渡った社会において「どれだけのモノをつくり出したのか?」という指標を高い水準に保とうと思えば、それは必然的に浪費や奢侈を促進し、モノをジャンジャン捨てることが美徳として礼賛される社会を生み出すことになります。しかし、そのような社会を私たちは本当に望んでいるのでしょうか?

 

いたずらに経済成長率という指標だけを追いかけることの危険性を訴え、経済成長と医療・教育・福祉などの充実をバランスさせるべきだと訴えたガルブレイスの『ゆたかな社会』が世界的ベストセラーとなったのは1958年のことでした。

 

その後、半世紀を経て、物質的満足度がすでに飽和しているにもかかわらず、ガルブレイスの主張とは逆行するようにして、なぜGDPという指標が、他の指標に突出して重視されるようになったのか? おそらくは「それ以外の適当な目標がなかったから」というのがその理由でしょう。

 

かつてモンテーニュが言ったように「心は正しい目標を欠くと、偽りの目標にはけ口を向ける」のです。私たちの社会が指標としてとうに賞味期限の終わった指標を使い続けていることは、とりもなおさず、私たちが新しい目標となる構想を描くことができていない、ということです。

 

だとすれば、いま、私たちがやらなければならないのは、拙速にGDPに延命措置を施すということではなく、そもそもどんな社会をつくり出したいのか、人が生きるに値すると思える社会とはどのようなものか?という点についてオープンな議論を尽くした上で、ではどのような指標を用いることで、そのような社会の実現に向けた進捗や達成度が測れるのか?ということを考えることではないでしょうか。

 

 

山口周

ライプニッツ 代表

 

 

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