1877年(明治10年)に創業した「鍋清」。元は鍋や釜の鋳造業の会社だったが、現在はベアリングの商社事業とアルミパーツの製造が主軸だ。今や創業140年超の超長寿企業だが、戦争、バブル崩壊、震災といたあらゆる困難を経験してきた。大手メーカーさえ傾いた第二次世界大戦後、個人商店だった鍋清は、どのようにして長寿企業へと至ったのか。5代目社長の筆者が当時の経営を語る。

営業しなくても売れる「ぬるま湯」状態が一転

朝鮮戦争が終わると、特需は実需に変わり、会社としての実力があるところが着実に伸びる健全な経済環境になった。そこで鍋清が直面したのが、当時の一番の得意先が倒産し、取引がなくなるという危機だった。

 

鍋清には「清友」よりも10年以上前に発行されていた「いさりび」という社内報があった。その創刊号で叔父が、取引先がなくなったときの様子を書いているのを見つけた。その頃の会社は借入金ゼロで、父が言っていたように「営業しなくても売れる」状態だった。そのため、「会社全体がぬるま湯に浸かった状態だった」と叔父は振り返る。

 

そして一番の得意先との取引が消えた。岐阜県の織機メーカーで、朝鮮戦争の特需を受けて、土嚢用麻袋、軍服、軍用毛布、テントなどで使う繊維製品で大きく成長した会社だった。繊維や紡績関連の会社はどこも潤っていた。

 

「織機をガチャンと織れば万の金が儲かる」ということで「ガチャマン景気」という言葉が生まれたり、繊維まわりの糸へんの業界が儲かるということで「糸へん景気」と言ったりする人もいた。

 

しかし、朝鮮戦争が停戦になると、バブルが終わり、景気がしぼむ。その影響で得意先は倒産し、取引があった鍋清の売上も急激に減ったのだ。ぬるま湯はいつの間にか冷たい水に変わっていた。

危機感の共有から始まった快進撃

「このままでは危ない」「せっかく燃え始めた火を消すわけにはいかない」

 

そう考えた父と叔父たちは、ベアリングの販路を開拓するために自動車や機械などの関連企業に積極的に営業を掛けた。その姿を見て、社員の間でも危機感が共有されるようになった。

 

ここから快進撃が始まる。社員全員で営業に走り回り、軍需に偏っていたベアリングの民需が少しずつ増えていく。大小さまざまな仕事を引き受けながら営業エリアは愛知県から近隣の県へと広がり、1965(昭和40)年には横浜営業所と豊橋営業所を立て続けに開設することになった。

 

戦前から取引があったマキタ(当時は牧田電機製作所)との関係では、中興の祖と呼ばれる後藤十次郎さんのもと、マキタが電気カンナを開発し、世界的な電動工具メーカーへと駆け上がっていく。そこでもベアリング需要を掴み、マキタとともに事業を伸ばしていく。

 

ベアリング以外の事業も積極的に広げた。その一つは、叔父の清作が始めた松下電器産業の代理店業務だ。松下電器産業のモーターなどを扱い、事業領域を拡大していく。この好景気は、ニクソンショックによる円高や、2度のオイルショックによって物価と金利の大幅に上昇する70年代初めまで続き、その過程で、鍋清は、1968(昭和43)年に鉄筋コンクリート造りの本社社屋を建てるまでに成長していった。

 

一時は廃業の可能性まで見た。資産をすべて失い、ゼロからの出発を強いられた。しかし、父をはじめとする幹部が諦めず、社員も粘り強く挑戦を続けたことにより、焼け野原にあった鍋清は、鍋清株式会社としてたくましく生き残ることになったのだ。

 

 

加藤 清春

鍋清株式会社 代表取締役社長

 

 

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    本連載は加藤清春氏の著書『孤高の挑戦者たち』(幻冬舎MC)より一部を抜粋・再編集したものです。

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