1877年(明治10年)に創業した「鍋清」。筆者はその5代目社長である。今や創業140年超の超長寿企業だが、戦争、バブル崩壊、震災といたあらゆる困難を経験してきた。時代を越えて生き残るためには、どうすればよいのか。ここでは第一・二次世界大戦期、鍋清が現在の主力事業「ベアリング」に参入したころのエピソードを紹介する。

一夜にして「鍋清が終わった」第二次世界大戦期

戦争は特需を生む。鍋清のベアリングも例に漏れず、第一次世界大戦と、その後の工業化のなかで事業と会社の拡張に大きく貢献した。

 

ただし、特需はあくまで戦火が遠いときの話だ。日本全体が戦場となった第二次世界大戦は、清太郎と父がコツコツと築き上げてきた鍋清を焼き払った。空襲は名古屋やその近郊に広がり、鍋清商店もベアリング店もすべて焼失した。1945(昭和20)年のことだ。

 

戦争の様子については、父の弟で、私の叔父である清作からも話を聞いたことがあった。たしか、店の「のれん」について話をしているときだった。叔父は私の祖母とともに不二見町の家に住んでいた。ここは住居であり本社でもあって、大正の終わり頃のお金で10万円ほど掛けた立派な家だった。

 

「あの夜は怖かった。なにしろ、夜中だというのに夜明けのような明るさだったからな」

 

叔父が言う。あの夜というのは、1945年の3月、名古屋一帯が米軍の大規模空襲を受けた夜のことだ。

 

夜明けのように明るくなった理由は、B29爆撃機数十機から投下された大量の焼夷弾だった。名古屋の街のあちこちで火が上がる。叔父と祖母の家も炎に包まれ、夜が明ける前には灰になった。

 

「あのとき、鍋清はいったん終わったんだ」

 

叔父が言う。名古屋へ移転したときでも消えなかった鍋清の炎が、このときに消えた。それはそうだろう。会社としては、父が金山橋の近くでベアリングの店を開いていたが、本店が焼けて、商品も失った。鋳造業の不振が会社の最初の危機だとすれば、この空襲と焼失は2番目の危機であり強烈だった。

 

「そのなかで、のれんだけが焼け残ったの?」

 

「いや、偶然にもそのとき、のれんは姉の嫁ぎ先に預けてあったんだ。そこはどうにか戦火を逃れたからな。それでお前のオヤジがのれんを継ぎ、今もこうして存在しているというわけだ」

 

鍋清ののれんは店名を染め抜いた布で、これという特徴はない。歴史があるため汚れているし、お世辞にも立派とはいえない。しかし、叔父の話を聞いているうちに、何も主張しないのれんが、鍋清が潜り抜けてきた戦火の激しさやその後の復興の苦労を代弁しているような気がした。

 

当時の私はまだ高校生くらいだったと思う。いずれ五代目として鍋清を引き継ぐだろうとは思っていたが、会社を守り、次の世代に渡していく責任を初めて感じたのはこのときだった。

 

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本連載は加藤清春氏の著書『孤高の挑戦者たち』(幻冬舎MC)より一部を抜粋・再編集したものです。

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