夫の女癖の悪さは重々承知のはずだったが…
昔から「女遊びは芸の肥やし」と、役者や芸人は女と遊んでこそ一流になれると言われている。ある程度は許容せねばならないと覚悟はしていたようだが……。
天外の女癖の悪さは、並の芸人レベルではなかった。
「しゃあないな」
それでも見てみぬふりをするしかない。女優業でも夫婦生活でも、我慢を強いられることばかり。もう我慢するのをやめて自分の思うように生きる。女優になった時、そう心に誓ったはずなのだが。人生、なかなか思い通りにはいかないものだ。
心配なのは浮気だけではない。素性の知れない怪しい男たちが、天外を訪ねてやって来ることがある。
天外は脚本家として「舘直志」というペンネームを使うようになっていた。これには「世のなかを立て直す」との意味が込められていたというから、政治には強い関心を持っていたようではある。
戦前の日本では「赤」と呼ばれ、一般庶民が恐れ嫌悪した共産主義者とも交友している。
昭和13年(1938)に演出家・杉本良吉と女優・岡田嘉子が、日本領だった南樺太からソ連側の北樺太に侵入して亡命する事件が起こり、「愛の逃避行」として世を騒然とさせていた。
杉本もまた共産主義者である。天外はこの杉本に、逃走資金をカンパしたといわれる。
事実かどうか分からないが、そんな噂が立つだけでも当時は恐ろしいことだった。
思想犯や政治犯の取り締まりを専門とする特高警察が知れば、証拠がなくても噂だけで逮捕される。拷問をうけることも珍しくない。場合によっては家族にも災いがおよぶこともあった。
「天外さんは、よく赤を連れて帰ってきました」
千栄子は週刊誌のインタビューで当時を振り返りながらこう語っている。
天外が共産主義者や無政府主義者とつき合っていたことを彼女は知っていた。夫から言われて、彼らに渡す活動資金を用立てたこともある。
共産主義者を家に上げたことを知られると、天外はもちろん彼女も社会から抹殺される。女優は辞めねばならないし、夫婦そろって留置場に入ることになるかもしれない。こんな連中とはかかわりあいたくない。気が強く度胸があるといわれた千栄子ではあるが、相手が「アカ」となれば……。
家にいる間は生きた心地がしなかった。
「早よぅ帰ってくれんやろか」
思わず口から出そうになる言葉を飲み込んで、つくり笑いで晩酌を準備する。
舞台を離れても、本心を隠して演技せねばならない時がある。それがしだいに増えてきたような気がする。
青山 誠
作家
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