惚れた弱みで、好まなかった喜劇の舞台に立つ
夫となる2代目・渋谷天外と知り合ったのもこの頃。昭和31年(1956)11月16日の『東京新聞』夕刊に掲載された「浪花千栄子芸談」によれば、
「そのころ私が居候していた岡嶋で、やっぱり居候していたのが渋谷天外さんです」
このように書かれている。
初代の渋谷天外は京都を中心に活躍し、関西では人気の喜劇役者だった。
2代目は幼い頃から父に鍛えられ、女形役で舞台に立ったこともある。
千栄子と知りあった当時は、本名の渋谷一雄の名前で、喜劇の脚本家として活躍していた。
「岡嶋」の3階にあった客間で暮らし、執筆に疲れると部屋の手すりにもたれかかり思案にふけっていた。1階で暮らしていた千栄子は、その姿をよく目撃している。やがてふたりは親しく話す間柄になった。
昭和3年(1928)に、渋谷天外は曾我廼家十吾らとともに「松竹家庭劇」を結成する。旗揚げ当初は役者が足りず、松竹所属の俳優が助っ人として出演することになった。
この頃、千栄子は「成美団」という劇団に在籍していたのだが、ここからも大勢の俳優が家庭劇に派遣されている。千栄子に対しては天外が直接声をかけて、松竹家庭劇への出演が依頼されたという。
同じ屋根の下に住む顔見知りの関係なだけに、それも充分に考えられることだ。
千栄子にとって喜劇は好みではなく、気乗りする仕事ではなかった。それでも仕事を受けたのは、おそらく、この時すでに天外に特別な好意を抱いていたのだろう。
それまでは男性との浮いた話をまったく聞かない。これが初恋だったのだろうか?
この時、千栄子は22歳。女優という職業からすると、ちょっと遅すぎる気がするのだが。
惚れた弱みで、好まなかった喜劇の舞台に立つ。
引き受けたからには、全身全霊をあげて演じた。
しかし、客の入りはいまひとつ。大阪では曾我廼家五郎一座が絶大な人気を誇っていた。松竹としては家庭劇をそのライバルとして競わせて、喜劇界を盛りあげようと考えていたのだが、それには力不足といった感が否めない。
松竹家庭劇は従来の喜劇にホームドラマの要素をくわえて、泣いて笑える人情味をたっぶりと含んだ新しい喜劇をめざしていた。
当時、その目新しさが一部のファンにはウケていたが、世の流行になるほどのムーブメントは起こらない。
深刻になってきた不況の影響もあり、興行成績はいまひとつ。定員1300人の角座を本拠として公演を続けたが、客席の半分も埋まらない日々が続く。少しでも利益をあげるために、東京をはじめ日本各地を巡業するようになった。
昭和5年(1930)になると、千栄子は家庭劇の専属女優となった。地方巡業にも同行するようになり、この年は朝鮮半島にも行った。
「その時にどうやらデキたらしいな。それで、うちの両親と岡嶋のご主人とが両方の親代わりになって結婚したんでっせ」
『喜劇の帝王 渋谷天外伝』(大槻茂著・小学館文庫)には、このような証言が記されている。
どうやら朝鮮半島の巡業公演中に、親しい仲から恋愛関係に発展したようだ。
12月になるとふたりは結婚して一緒に住むようになる。
青山 誠
作家
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