「普通の子ども」という彼女のささやかな夢
彼女の晩年期に出版された自伝『水のように』のなかに、当時の暮らしが詳しく綴られている。実母は5歳の時に亡くなっていた。彼女はまだ母親の保護を必要とする年齢だったが、3歳年下の弟の母親代わりとなり、家事や鶏の世話など忙しく働いた。
そのため小学校に通うことができない。
この時代、尋常小学校は義務教育であり、満6~12歳の子どもたちは学校に通うことになっていた。明治33年(1900)に授業料が無償化されてからは就学率が急上昇し、大正期に入ると98パーセントを超えている。学校に通わない子どもは、かなり稀な存在。幼少の頃には一緒に遊んでいた子どもたちとも疎遠になる。
もともとが貧しい家、服装も他の子どもたちと比べて粗末だった。母を失ってからは髪の手入れをしてくれる人もおらずボサボサで、めったに洗濯しない着物は薄汚れていた。垢にまみれて汚れるほどに、彼女の心に巣くう劣等感も大きくなってくる。
丘陵をめざして坂道を上る。丘陵の麓に点在する集落の家並みはすぐに途切れ、小路は草深い山道の様相を呈してくる。戦後に開発された住宅地はまだなく、丘は雑木と草に覆われていた。その頂に近い場所は、村の鎮守である板茂 神社の境内になっている。そこに古い祠と小さな木造校舎が木々の隙間に埋もれるようにしてあった。
板茂神社境内に板持尋常小学校が開校したのは明治8年(1875)のこと。以来、この集落に生まれた者は、子ども時代をこの学舎で過ごし、思い出を共有する。それがない彼女は、村の子どもたちの間では異端の存在だった。薄汚れた風体もまた、この豊かな村のなかでは異彩を放っている。
狭い村社会では、少数派の異端者ほど居心地の悪いものはない。序列を常に気にしている多数派は、自分たちとは違う少数派を蔑むことで、自分が最下層にいないことを確認して安楽を得る。
朝、通学する子どもたちの声が通りのほうから聞こえてくると、キクノは鶏に餌やりする手を止めて家のなかに隠れる。同年代の子どもたちの目に触れることを恐れた。惨めな姿を蔑まれ冷笑されることに耐えられない。
「学校に行きたい」
子守りや家事から解放されて小学校に通う。そうなれば、指差して笑う者はいなくなる。「普通の子ども」になる。それが彼女のささやかな夢だった。
青山 誠
作家
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