
政府発表による「脱・ハンコ化」は、行政手続きや企業の業務のスリム化・効率化に多くのメリットをもたらします。とはいえ、真面目に働いてきた印鑑製造業者は大打撃です。しかし「廃業奨励金」を支給することで、納得のいく着地点は探せます。実は、この一連の流れに見る「スリム化・効率化」は、日本経済自体を変える可能性も秘めているのです。印鑑製造業者を例に、経済評論家・塚崎公義氏が解説します。
「割増退職金」の考えを応用した「廃業奨励金」
政府は2020年6月に、行政効率化の一貫として押印を原則廃止する方針を発表しました。コロナ禍のなか、ハンコを押すために出社することや、従来のような対面での作業を減らし、テレワークを推進する狙いがあると考えられます。内閣府、法務省、経済産業省の連名で、押印に関する法解釈について、Q&A形式の文書でも公表しています(「押印に関するQ&A」)。
押印がなくても意思確認できればいいのですから、筆者個人の意見としては、廃止は大歓迎です。各種届出の押印は、100均で買える印でOKであるなど、そもそもあまり意味がないでしょうし、決済印についても、電子決済等々で代替できるようになるでしょう。
行政の押印の原則廃止により、日本の行政は効率化し、民間部門にも同様の動きが広がるでしょう。それにより、日本人の働き方改革にも、労働力不足対策にも、大いに効果があると期待されますが、それ以上に、これが契機となってほかの分野でも「前例踏襲」が見直されることになると考えられます。詳細については後述します。
しかし問題もあります。印鑑製造業者が反対運動を起こす可能性があることです。彼らにとっては死活問題ですから、可能性は十分ありますし、実際にそうした動きも伝えられています。万が一にも彼らの反対運動によって押印廃止が行えなくなってしまえば影響は深刻ですから、この動きはなんとしても止めなければなりません。

そのためのひとつの選択肢として、筆者は「廃業奨励金」を提案します。企業が人員削減を図る際、「割増退職金」を支払うことで自発的に気持ちよく退職していただくことがありますが、その発想を応用したものです。「奨励金」を支払うことによって、印鑑製造業者に「自発的に気持ちよく廃業していただく」のです。
この案に対しては、「産業の衰退は印鑑製造業界に限らず世の常である。ビジネスの世界はそれを前提に成り立っているのに、廃業奨励金とはなにごとだ」という反対論があるはずです。
しかし、それでもなお筆者が提案する理由は2つあります。ひとつは「競争に負けて衰退したのではなく、政府の突然の方針転換によって廃業に追い込まれるのは気の毒である」という点、それに加え「目的を達成するための止むを得ない手段である」という点です。
競争に敗れて敗退する事業者は勝者に対して反対運動をすることはできませんが、今回の場合、印鑑製造業者は政府に対して反対運動を繰り広げることになります。それを阻止するための必要コストだ、というわけです。
余談ですが、この発想を発展させれば、新型コロナによる営業自粛を迫られた飲食店などには政府から「自粛協力金」を支払うべきでしょう。消費者に対するステイホーム要請で客が減った分については、因果関係の立証が難しいでしょうが、こちらは「持続化給付金」などで補われていると解釈しましょう。
廃業奨励金を支払うといっても「自分は印鑑製造を天職と考えているので、絶対に廃業は嫌だ」と考える人もいるでしょう。そうした人に廃業を強要するわけにはいきません。
もっとも、この問題はあまり深刻に考える必要はないと思います。天職だと考えるほどの人は技術レベルが高いでしょうから、実印などのニッチな分野で生き残ればよいのですから。
反対運動という観点からも、深刻な問題ではないでしょう。技術のある人は実印などで生き残ることができるので反対運動はしないでしょうし、技術のない人は廃業奨励金を受け取ってほかの仕事に就けばよいからです。反対運動をするのは「技術レベルは低いけれども、金をもらっても廃業は嫌だ」という人でしょうが、これはおそらく少数派ですから、反対運動も盛り上がらないでしょう。