ウイスキーの本場といったらどこを思い浮かべるだろうか? イギリス、アメリカ――それだけではない。今、日本のウイスキーの評価はうなぎのぼりで、世界中の賞を総なめにしている。だが、肝心の日本人はその事実を知らない。しかし、それではもったいない――ウイスキー評論家の土屋守氏はそう語る。ここでは、ウイスキーをもっと美味しく嗜むために、日本のウイスキーの歴史や豆知識など、「ジャパニーズウイスキー」の奥深い世界観を紹介する。本連載は、土屋守著書『ビジネスに効く教養としてのジャパニーズウイスキー』(祥伝社)から一部を抜粋・編集したものです。

日本で最初にウイスキーを飲んだのは…

では、日本で最初にウイスキーが飲まれたのはいつなのか? 有力なのは、江戸時代末期の1853(嘉永6)年、黒船来航の際にウイスキーが持ち込まれ、このときはじめて、日本人がウイスキーを飲んだ、という説です。1852(嘉永5)年11月、東インド艦隊司令長官ペリーは自身が建造にかかわった蒸気軍艦ミシシッピ号に乗り、アメリカのノーフォーク軍港を出発しました。日本に開国を迫るためです。

 

翌1853年の5月、ペリー一行は琉球に到着し、琉球王朝から手厚いもてなしを受けます。その返礼として、ペリーは船上でパーティーを催し、琉球王国の高官・尚宏勲(シャンハンヒュン)らを招待。その船上パーティーでは西洋のあらゆるお酒や料理が供され、スコッチウイスキーやアメリカンウイスキーもあったと、『ペルリ提督日本遠征記』に記されています。

 

そして、その後琉球を出発したペリー一行は7月に浦賀(うらが)に入ります。このとき、ペリーとの交渉に当たった主要メンバーが中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)、香山栄左衛門(かやまえいざえもん)、堀達之助(ほりたつのすけ)の3人です。中島と香山は幕府の役人、堀は通訳でした。ペリー一行は3人を船に招いて西洋料理と飲み物を振る舞っています。飲み物のなかにはウイスキーもありました。

 

ウイスキーを飲んだ3人の様子を、アメリカの記録官は次のように記しています。「ことのほか日本の役人はジョンバーリーコーンがお好きで、着物の懐ふところにハムを詰め込み、酔っ払って真っ赤な顔で船から下りていった。」ジョンバーリーコーンはウイスキーの愛称で、西洋では当時よく使われた言葉です。どうやら3人は、ウイスキーをいたくお気に召したようです。

 

以上から、記録に残る限りでは、日本に最初にウイスキーを持ち込んだのはペリーとその一行、ウイスキーを最初に飲んだ日本人は、ペリー一行の接待にあずかった日本人たちということになります。黒船が日本にもたらしたのは開国だけでなく、ウイスキーをはじめとする西洋の文化だったのです。その後、ペリー一行はいったん上海、香港へ戻ります。

 

そして1854(嘉永7)年、再び来航し、日米和親条約が締結されました。調印式は横浜で行なわれ、その様子が描かれた絵が今も残っています。そこにはウイスキーの樽がしっかりと描かれています。アメリカ側の記録によると、その樽は時の将軍・第十三代徳川家定(いえさだ)に献上されたとか。家定はウイスキーを飲んだのでしょうか。飲んでいたとしたら、ウイスキーを最初に飲んだ将軍は家定になりそうです。

 

 

ウイスキー文化研究所代表

ウイスキー評論家

 

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ビジネスに効く教養としてのジャパニーズウイスキー

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土屋 守

祥伝社

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