どこの街に住むかの選択は、仕事やプライベートに大きな影響を与える。さらに家賃が家計支出の大きなウェイトを占めることを考えると、居住地は資産形成までも左右するといえる。総合的に考えて住みやすい街はどこなのだろうか? 20代後半から30代前半の単身会社員の住み心地を考えていこう。今回取り上げるのはJR山手線、東急電鉄池上線、都営地下鉄浅草線の「五反田」。

なぜ高級住宅地と、歓楽街が形成されたのか

五反田周辺には、城南エリアの高級住宅街の代名詞として知られる「城南五山」の「島津山」「池田山」「御殿山」などの住宅地があります。これらは江戸時代、大名屋敷や幕府の施設が集中し、その流れを汲むエリアです。明治時代以後は、伊藤博文や岩崎久弥などの邸宅が並びました。

 

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東五反田五丁目周辺の「池田山」は、江戸時代、岡山池田藩の下屋敷があったことが由来します。上皇后美智子様の実家・正田家があった地としても知られ、現在、跡地は公園「ねむの木の庭」として整備されています。

 

東五反田三丁目周辺の「島津山」は、明治時代、薩摩島津公爵家の邸宅があったことに由来します。その一角にある「清泉女子大学」には、地名の由来ともなった旧薩摩藩主の「旧島津公爵邸」など、当時を偲ばせるものが残されています。

 

北品川四丁目周辺の「御殿山」は、かつて徳川家康が建立したとされる「品川御殿」があったことに由来します。エリアの東側にはホテルや美術館などを併設した「御殿山トラストシティ」があります。

 

一方、大正時代には五反田周辺で鉱泉が発見。1929年刊行の『全国花街めぐり』によると、同じく鉱泉が発見された荒川区尾久と並んで、急激に発展した新しい花街として紹介されています。鉱泉の発見により温泉旅館ができ、やがて花街となるという流れです。

 

1923年関東大震災により、東京東部の下町が壊滅的な被害を受けると、西部に位置する五反田の花街は膨張。1925年には三業地(料亭、置屋、待合)として認定され、芸者屋58軒、芸者220人、料理店25軒、待合45軒を有する、東京屈指の花街へと変貌を遂げていきます。

 

また歓楽街を支えたのが、お隣「大崎」周辺の工場群で働く人たち。仕事を終えると五反田周辺に繰り出した、というわけです。

 

他の花街がそうだったように、時代の流れともに花街としての機能は低下。一方で、飲食店や風俗店、ラブホテルなどが集積する歓楽街的要素はそのまま残り、現在に至ります。

 

このように、「五反田」駅を起点とすると、駅周辺に歓楽街が広がり、その先に高級住宅地が広がるという位置関係にあります。そんな五反田には、近年、新たな“顔”が加わりました。その名も、「五反田バレー」です。

 

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