1560年(永禄3年)6月、45,000人もの大群を率いて尾張に侵攻した今川義元に対し、織田信長がわずか2,000人の少数の軍勢で立ち向かい、勝利を収めたといわれる「桶狭間の戦い」。信長天下統一の第一歩となったといわれる、日本史上まれにみる戦いです。西野塾主宰・西野鉄郎氏の書籍『古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか』(幻冬舎MC)によると、信長には勝利のためのこだわりがあったといいます。それは一体なんなのでしょうか。

 

そうそう、お市の小豆の袋(信長が袋小路に陥り絶体絶命のピンチに陥る)のとき、信長は単騎一目散に、越前金ヶ崎から京に逃げ帰ります。なんとも安上がりな防衛策でしょう!

 

信長の戦いは別次元ですから、後世のわれわれさえもわかりにくく、当時の彼らはキツネに取り憑かれたようにアッというまに壊滅状態だったことでしょう。

 

信長は勝利の予感の中で勝利してきました。信長はオールラウンドプレイヤーでもあったでしょうが、私は欠点をうまく処理するのが、信長の「戦争論」では、99%の欠点を補う1%の長所だと思っています。

 

岐阜城制圧前の信長はくり返し美濃の斎藤氏に戦争を仕掛けていましたが、負けることも多く、桶狭間での勝利から岐阜城征圧までに、なんと7年もの月日がかかってしまいました。とはいえ、負けても信長には深いダメージはありません。怯むどころか、斎藤氏を執拗に攻め続けました。意外かもしれませんが、信長は小競り合いが得意だったのです。

 

周到な戦の準備をして、信長はくり返しくり返し美濃に侵攻していました。日々の準備が完璧であれば、信長は自ずから勝利が転がり込んでくることを知っていました。そのことも勝利の予感の中で勝利するというのです。

 

圧倒的な時間を準備にかけ、自分の努力を客観的な視点で絶対評価して、本番に勝つことも勝利の予感の中で勝利する、です。しかし、その勝利はくり返しくり返す小さな敗北があってはじめて身についてきたものであることを忘れてはいけません。ところが岐阜城以後の信長は、小さな敗北の上に立つ勝利ではなくて、小さな勝利の上に立つ信長に変化しているのがわかります。

 

※本記事は連載『古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか』を再構成したものです。

古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか

古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか

西野 鉄郎

幻冬舎メディアコンサルティング

九谷五彩による華麗な絵付けと独特の様式美で知られる磁器「古九谷」。 武家文化・キリシタン文化そして朝廷尊皇文化が育まれた加賀・金沢において古九谷誕生の背景にあったものを追究する歴史ロマン。

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