1560年(永禄3年)6月、45,000人もの大群を率いて尾張に侵攻した今川義元に対し、織田信長がわずか2,000人の少数の軍勢で立ち向かい、勝利を収めたといわれる「桶狭間の戦い」。信長天下統一の第一歩となったといわれる、日本史上まれにみる戦いです。西野塾主宰・西野鉄郎氏の書籍『古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか』(幻冬舎MC)によると、信長には勝利のためのこだわりがあったといいます。それは一体なんなのでしょうか。

 

つまり、私がいいたいのは、信長には、得意技がなかったということです。なので、われわれはどうやって桶狭間や長篠で信長が勝利したのかもわかりません。

 

柔道で吉田氏と同じく国民栄誉賞受賞者の山下泰裕氏や貴乃花氏の得意技を思い出すことは難しいでしょう。それくらい山下氏も貴乃花氏も強かったのです。いや、信長はすべての技が得意技だったのです。なぜなら、信長の技の足が揃っているからです。

 

信長は大坂湾で村上水軍の得意技の焙烙火矢を封じました。長篠でも、武田の得意技の騎馬隊の突進を封じたのです。つまり、相手の得意技を封じるのが信長です。長所など封じられて終わりです。封じられない長所、それこそが99%の欠点を補う1%の長所なのです。よく信長は鉄砲で天下を獲ったと言われますが、それは誤解です。信長は、反対に、鉄砲に苦しめられていたのです。

 

そもそも信長が鉄砲に着目したのは織田兵が弱かったからでした。傭兵に応募したのは喰いっぱぐれたホームレスです。そんな浮浪児や傾奇者に鉄砲を持たせよう。信長は客観的な視点で彼らを絶対的に評価したのです。彼らの欠点を冷徹に見つめ、その上で、彼らを活かすのが、鉄砲を集団で使う信長の画期的な戦術でした。

信長は、攻撃ではなく「防御」を重視していた

信長の優れているところはバランス感覚、長所と短所を客観的な視点で絶対評価できるところです。また長所をバージョンアップ的な方法で身につけるをことを避け、むしろ欠点を克服することに目を向けたところです。しかも欠点の克服の仕方が、信長的なのです。

 

信長は桶狭間こそ攻撃しましたが、長篠にしろ、鉄甲船にしろ、信長は攻撃するのではなく、防御を固めました。信長は自軍の欠点の克服のため、防御を中心とした攻撃プランで戦うのです。吉田氏のような攻撃スタイルではなく、山下氏や貴乃花氏のような防御スタイルなのです。

 

長篠では武田騎馬軍団の突撃を防ぐために三段防御柵を設けます。また、毛利軍との大坂湾決戦では、村上水軍の焙烙火矢を防ぐために、木造の船に鉄板を貼りつけます。防御柵を設けるだけですし、鉄板を貼り付けるだけなのです。信長は防御の根幹がわかっているので、具体策はあっけないほど簡単です。そうでなければ、欠点の克服には、時間もかかりますし、費用もかかってしまいます。

 

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古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか

古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか

西野 鉄郎

幻冬舎メディアコンサルティング

九谷五彩による華麗な絵付けと独特の様式美で知られる磁器「古九谷」。 武家文化・キリシタン文化そして朝廷尊皇文化が育まれた加賀・金沢において古九谷誕生の背景にあったものを追究する歴史ロマン。

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