インドは中国に次いで世界第2位の14億人の人口を誇る。豊富な人口に加え、平均年齢が27歳と中国より10歳若く、中国経済が減速する中、インドの本格的な成長が期待されている。今後、インドは世界市場の「最後の成長のエンジン」となれるのか。鈴木修・スズキ会長がインドについて、世界の自動車産業の未来について語る。本連載はグルチャラン・ダス著『日本人とインド人』(プレジデント社)の抜粋原稿です。

販売台数5万台超えて日本メーカーが進出

インド人の生活環境はスズキが進出したときから比べると、ずいぶんとよくなりました。社会は豊かになり、心のゆとりもできたようです。なんといっても、普通の市民がスズキの車を買って乗るようになったのですから……。あの頃はとても考えられませんでした。自動車は富裕層の乗り物だったのです。

 

これも進出したときの話になりますが、工場で生産を始める前、インド人の幹部、ワーカーに15分くらいの短編映画を見せました。シナリオは私が書いたものです。冒頭のシーンは戦後の焼け野原だった日本で、次に発展した日本の風景を映しました。日本も昔は貧しかったけれど、頑張れば豊かになることを知らせたかったのです。

 

年配の方以外はご存じないと思いますが、敗戦後の日本は貧困のどん底だったのです。

 

1945年が敗戦。それから十数年間、日本人は、心のゆとりもなく、一様に精神的な行き詰まりを感じていました。

 

1950年、私は20歳で、ふるさとの下呂の成人式に出ました。下呂は岐阜県の山のなかの田舎です。

 

町長さんがあの時、こうおっしゃっていたのをよく覚えています。

 

「私たちは戦争に負けた。日本は廃墟になった。私はこれからも町長として頑張って日本経済の再建にまい進しなければならない。しかし、私はもう、60歳を過ぎている。頑張ることは頑張るけれど、これからの日本はみなさんのような若者に託さなければならない。私はあなたたちのような若い青年に、戦後の経済復興をお願いしたいと思う」

 

以来、私は、何とか日本を豊かにしたいと思い、働いてきました。そうして、日本はアメリカに追いつき追い越せでやってきたことで、成長したのです。敗戦後、私たちはずいぶんアメリカに助けられ、経済復興し、成長したのです。そして、お礼はアメリカではなく、今度は東南アジアやインドにすればいいと思いました。それもあって、私はインドに工場を造ることにしたのです。アメリカはつねに発展していますから、恩返しは東南アジアでありインドだ、と。

 

工場を造って生産を始めた直後、現地では部品調達ができませんから、ほとんどの部品は日本から持っていってフルノックダウンでやっていました。それが1985年、年間生産台数が5万台を超えた頃から、日本から部品メーカーが進出してきてくれたのです。

 

併せて、私たちは現地の部品会社にも技術指導をしました。そうしているうちに、インドでほとんどの部品を造れるようになり、現在では現地部品の調達率は95パーセントになっています。

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日本人とインド人

日本人とインド人

グルチャラン・ダス

プレジデント社

インドは中国に次いで世界第2位の14億人の人口を誇る。豊富な人口に加え、平均年齢が27歳と中国より10歳若く、中国経済が減速する中、インドの本格的な成長が期待されている。今後、インドは世界市場の「最後の成長のエンジン…

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