斉彬は、当時の国際情勢から列強に支配されかねない日本の現状に危機感を持ち、外国の知識を得たいと考えていたからです。斉彬は、「まあ酒でも飲め」と万次郎に酒を勧めたといわれます。当時の身分差を考えると、大名が貧しい漁師出身の者に直接酒を勧めるということ自体、破格の待遇でした。
斉彬の尽力もあり、幕府の対外国的な窓口があった長崎に向かい、幕府の取り調べを経て、漂流から11年後に土佐に帰りました。土佐では、母親をはじめ家族との感激の再会を果たしたのです。
当時米国から開国を迫られていた時期であり、米国本土を直に見てきた経験のある、おそらく唯一の日本人ではないかと考えられる万次郎は、土佐の実家での滞在は長くありませんでした。貴重な人材として幕府に登用されることになり江戸に向かいます。
万次郎は、米国の経済的実力を肌感覚で知っていたので、幕府内の議論で開国を勧めたといわれています。日本建国以来の危機を、身分を超えて活躍した漂流民の経験と見識が救ったのです。
危機的な状況だったとはいえ、能力・経験があれば出自に関係なく幕府の要職に登用するというのは日本の封建制に柔軟性があったことを証明しているでしょう。
学問のある人については身分が下であっても尊敬する
能力・経験に加え、学問のある人を尊重するという考え方が日本では強くありました。そのため、江戸時代の知識人の中には、陽明学者の中江藤樹(なかえとうじゅ)や蘭学者の平賀源内(ひらがげんない)など、上級武士階級以上の出身でない、下級武士や庶民出身の人も多数いるのです。
「学問のある人については身分が下であっても尊敬する」
これは、身分が絶対的な価値である封建制の社会ではなかなか難しいことです。海外の国王や皇帝が、学問のある人を傍に置いたり、特定のテーマについて諮問したりすることはよくありますが、身分を超えて尊敬を見える形で表現するところまでには至っていないのではないでしょうか。
庶民の中から歴史的に偉大な思想家も出ています。
江戸時代の著名な思想家の石田梅岩がその一人です。
梅岩は石門心学(せきもんしんがく)という新たな思想を打ち立てた思想家として知られています。