水晶体をまるごと摘出⁉「白内障手術」進化の歴史を振り返る

いまや白内障手術は「安全であること」が当たり前になっていますが、実は約30年前までは、白内障手術は今よりはるかに困難で、非常に原始的で危険な方法がとられていました。今回は、『「見える」を取り戻す白内障手術』(幻冬舎MC)より一部を抜粋し、近代における白内障手術の変遷について紹介します。※1700年以前の白内障手術についてはこちら

水晶体全体を目の外に取り出す時代

【1700〜1800年頃】病因が解明され、水晶体を取り出す術式が考案される

そして1705年に、革命的なことが起こります。この頃、フランスでは白内障に罹患していた人の目(ご遺体)を解剖し、どのようなメカニズムで白内障が生じているのかの研究が盛んに行われていました。

 

そんな中、フランスの眼科医ブリソー(Michel Brisseau)により「白内障は水晶体の混濁により引き起こされる」という考えが提唱されます。

 

そして、ついに1745年にはフランスの宮廷医ダビエル(Jacques Daviel)が、水晶体の前嚢を切開し、水晶体の核と皮質をそのままの形で取り出す術式「水晶体嚢外摘出術」を考案したのです。これは、水晶体が入っている袋を切開し、水晶体の核と皮質のみをそのまま取り出すという術式です。水晶体を目の外へ取り出す術式が初めて登場した画期的なできごとでした。

 

近代に入ってから、手術を安全に行うための技術や麻酔などが整えられて行くようになりました。

 

「麻酔」が用いられるようになったのは、近代に入ってから。それ以前は、眼球の裏側に注射針で麻酔をしていた。
「麻酔」が用いられるようになったのは、近代に入ってから。それ以前は、眼球の裏側に注射針で麻酔をしていた。

 

 

【1800年代】水晶体を袋ごと取り出す術式が編み出される

濁った水晶体を取り出す方法として、水晶体が入っている袋の前側(前嚢)を切開し、水晶体の核を取り出していたのですが、袋(嚢)の水晶体上皮細胞が勝手に増殖し始め、手術後しばらくすると嚢自体がまた濁ってしまい見えなくなる「後発白内障」が頻発していました。当時は後発白内障の治療法が存在しませんでした。

 

そのため1800年頃、ウィーン大のビア医師(Georg Joseph Beer)が水晶体を袋ごと取り出す「水晶体全摘出術(水晶体嚢内摘出術)」を提唱します。この術式はこの後、1900年代半ばまで、世界中で行われるようになります。

 

 

◆シーボルトが来日、白内障の手術デモを行う

1823年、シーボルトが鎖国下の日本へやってきます。このときの彼は、大学を卒業してまだ3年も経っておらず、ドイツでは白内障の手術を経験していなかったといわれています。

 

日本では、動物に散瞳薬を点眼し、水晶体全摘出術(水晶体嚢内摘出術)のデモンストレーションを行ったようです。その後、人に対しても手術を行ったようですが、それまで日本で行われていた水晶体突き落とし術とは違う術式に驚きはしたものの、経験の浅い彼の術式は予後がそれほどよくなかったことから、日本ではそれほど普及しなかったとされています。

 

その後明治期になり、西洋医学が本格的に学ばれるようになると、日本でも水晶体全摘出術(水晶体嚢内摘出術)が主流になっていきます。

 

 

【1900年代〜】凍らせたチップで、水晶体を袋ごと引っ張り出す

1960年代になると水晶体全摘出術(水晶体嚢内摘出術)の一つの方法として、冷凍したチップ(冷凍プローブ)を水晶体にくっつけて、水晶体を引っ張り出す「冷凍摘出術」が行われるようになります。

 

冷凍摘出術は、冷却した細い金属チップを水晶体嚢にくっつけて凍らせることにより癒着させ、角膜輪部の大きな創口から水晶体全体を目の外へ摘出する方法です。創口は角膜のおよそ半分程度の広さが必要であり、水晶体がまるごと(嚢と水晶体)取り除かれるため眼球への影響が非常に大きい手術法です。日本では1990年代前半頃まで行われていました。

 

[図表1]水晶体嚢内摘出術(全摘出術)

白内障手術に「2つの技術革命」が起きた時代

革命①1949年、ついに人工の眼内レンズが登場!

1949年11月、白内障の治療における革新的な出来事が起きます。

 

ロンドンのセント・トーマス病院のリドリー医師(Harold Ridley)が、45歳・女性の眼内に人口のレンズを設置したのです。それまでは水晶体の摘出後は、分厚いメガネの装用が必須でしたが、目の中に埋設する眼内レンズが初めて臨床の場で用いられたのです。

 

きっかけは、飛行士の目に風防ガラスが入ったこと。

 

戦争で目を負傷した飛行士をリドリー医師が診察したところ、目の中に戦闘機の割れた風防ガラス(ポリメチルメタクリレート(PMMA)製)が入っているのにもかかわらず、炎症が起きていないことに気づきました。そこでPMMA製のレンズならば、眼内に入れても大丈夫ではないかと考えたのです。

 

当時、彼が使っていたレンズは、直径8ミリ、重量11ミリグラムという非常に大きなものでした。その後の経過では、30年以上良好に使用できたケースもあったようですが、ほとんどの症例でレンズが眼内に落下してしまい、失明することのほうが多かったようです。

 

当時は「悪魔のレンズ」と呼ばれており、その後技術が確立し、安全に使用できるようになるまで、30年の時間を要することになります。

 

革命②水晶体を超音波で乳化させる技術が登場

さらに1967年には、アメリカの眼科医ケルマン(Charles Kelman)が「超音波乳化吸引術」を開発しました。

 

それまでは水晶体の硬い核をそのまま摘出するため、10ミリ以上角膜縁を切開する必要がありました。しかしケルマン医師が開発した超音波乳化吸引術では、水晶体の核を超音波で破砕して吸い取るため超音波プローブが入る数ミリの創口から手術ができるようになりました。

 

必要な創口の大きさは、眼内レンズの直径に依存し、眼内レンズの直径が6ミリなら6ミリの創口が必要でした。眼内レンズを折りたたんで入れることができるようになると3ミリ以下の創口で手術が可能になっていきました。

 

1800年代以降の流れをまとめると、次の図のようになります。

 

[図表2]嚢内→嚢外→超音波乳化吸引という変化

 

水晶体を袋(嚢)ごと全部取り出していた「嚢内摘出術」の時代から、袋を残して中身(水晶体の核と皮質)を取り出す「嚢外摘出術」の時代へ、そして水晶体の中身(水晶体の核と皮質)を機械で細かく砕いて吸い出す「超音波乳化吸引術」の時代へと進化をしてきました。

 

 

板谷 正紀

医療法人クラルス はんがい眼科 理事長

 

医療法人クラルス はんがい眼科 理事長 

京都大学眼科で網膜と緑内障の研究と臨床に従事。白内障手術、緑内障手術、硝子体手術などを駆使する術者として技術練磨に勤む。
埼玉医大眼科教授、日本眼科手術学会総会長、埼玉県眼科医会理事、埼玉腎・アイバンク専務理事などを歴任。

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著者紹介

連載近くも、遠くも、快適に…「見える」を取り戻す白内障手術

「見える」を取り戻す白内障手術

「見える」を取り戻す白内障手術

板谷 正紀

幻冬舎

レーザー白内障手術は、安全・快適・短時間に「見えない」という病気状態を解決し、「見える」を取り戻し、さらに快適に見えるを手に入れるまでに進化しました。この本では、進化した多焦点レンズ、レーザー白内障手術の最新情…