
相続税の基礎控除額が引き下げられ、今まで「うちは無縁」と思っていた人でも、相続税を払う義務が生じるようになった。タクシーさん(仮名)の兄は、親から小さなビルを相続した。多少でも資産があれば、この子の人生は楽になる。そう考えた親が遺した愛情であった。しかし兄は、相続税を払わずに逃げてしまう。そして、数百万円の税金の支払いを渋ったことで、残りの人生を台無しにしてしまったのだ。※本記事では、税理士の髙野眞弓氏が、自身の経験もとにした「炎上エピソード」を紹介する。
相続税を払わずに消えた
タクシーさん(仮名)が事務所にやってきたのは、夏真っ盛りの8月の暑い日のことだった。彼は埼玉県でタクシー会社を経営する50代の男性。10年ほど前に私が会社の顧問となり、会社の税務を引き受けてきた。そんな彼から「相続の相談をしたい」と電話を受けた。私は会社の税務を見ているため、会社のことはよく知っている。しかし、彼個人や家族のことは知らない。相続について相談されたのもこの時が初めてだった。
「暑かったでしょう」私はタクシーさんをねぎらい、エアコンの効いた部屋に彼を招き入れた。
「いやあ、暑い暑い。埼玉も暑いですが、東京もひどい」
「アスファルトが鉄板のようになっていますからね。昼間は逃げ場がありませんよ」私はそう言い、冷たい飲み物をすすめた。
「会社の調子はどうですか?」
「相変わらずドライバー不足には悩んでいますが、まあ順調なほうでしょう。景気回復の波が東京から埼玉まで広がってくれれば、もうちょっと儲かるんでしょうけど」「そうですか」私はそう返し、商売が順調であることに安心した。
タクシーさんは一代で会社を興した働き者だ。起業家の中には、ドカンと大きく儲けたり、その反動で大きく損を出したりするタイプの人がいるが、タクシーさんはその対極のコツコツタイプである。少しずつ社員を増やし、売上を伸ばしてきた。過去10年ほどの税務書類にも、その堅実さが表れていた。
「それで、今日は相続税の相談があるそうですね。どなたか亡くなったのですか?」
「半年ほど前に母が亡くなりました。ただ、その相続は終わっています。父は私が大学生の頃にすでに他界していて、私の兄が小さなビルを相続したんです」
「そうでしたか」
「その際に相続税が発生したのですが、兄が未納のままどこかに消えてしまったのです」
「消えた?」私は聞き返した。
相続税を意図的に払わなければ脱税行為となる可能性がある。現在の税務調査の態勢を踏まえれば、逃げ切れる可能性はほぼゼロだ。納付が遅れるほど延滞税がつき、納付額が増える。
「消えたといっても、事件に巻き込まれたとかではありません。女をつくって逃げたようなのです」
「そうですか。いずれにしても相続税は納めなければなりません。詳しく話を聞かせてください」私がそう言うと、タクシーさんは安心したような表情を見せ、話し始めた。
甘やかされた育った兄
「どこから話せばよいのかわかりませんが、まず、兄は甘やかされて育ちました。というのは、足に生まれつきの障害があったもので、父も母も兄を特に可愛がったのです」
「重い障害ですか?」
「走ることはできません。歩くことはできますが、片足を引きずりながらです」
「そうですか」
「それもあって、兄は家の中では暴君のように振る舞っていました。自分は不幸だ。不幸なんだからわがまま言っていい。そういう風に思っていたのだと思います」兄の気持ちはわからなくはなかった。どの世界にも、自分の不幸を呪う人はいるものだ。
「両親もそういう振る舞いを許していたのですね」
「ええ。親は叱りませんでした。障害があるのだからかわいそうという気持ちと、障害のある子に生んだことに責任を感じていたのだと思います。そういう環境だったので、兄はどんどん傲慢になり、難しい性格の人間になりました。両親も私も、兄に対しては、どこか腫れ物に触るような扱いをしていました」
「大人になってもそういう性格は変わらなかったのですか?」
「ええ。多少は社交的になりましたが、中身は変わっていません。他人に対しては愛想よくするのですが、家族にはきつく当たります。その後、結婚して、子どもができてからは、自分の妻や子どもにもきつく当たるようになりました」
「奥さんと子どもがいるのですね」
「はい。奥さんは10年前に離婚していて、今はどこにいるかわかりません。離婚というより、逃げたといったほうが正確ですね。暴君のような兄を嫌がったのだと思います。それと、母とも不仲でした」
「いわゆる嫁姑の不仲ですか」
「ええ。そこは母にも問題があったと思います。その頃にはすでに父は他界していて、母と兄の家族は、母が持っていたビルで一緒に暮らしていました。ただ、母は兄を贔屓(ひいき)します。そのため、兄夫婦で何か問題があった時も、いつも兄の味方をしました」
「お兄さんの奥さんは孤立していたのですね」
「ええ。それで逃げてしまったんです」