前回は、住まいの大切な価値観が失われたのはなぜなのか、その理由を説明しました。今回は、マンションに「新建材」が使われるようになった経緯を見ていきます。

「新建材」という言葉が初めて使われたのは・・・

新建材はいつ頃から使われていたのでしょうか。

 

「新建材」という言葉は、1970年の林業白書で初めて使われています。国産材よりも輸入木材の供給量が上回り、合板などが安定して供給されるようになってきた時期に、林業界の危機感から生まれた言葉だったのではないかと推測します。

 

しかし、新建材が多用される下地は、もう少し前にさかのぼります。1960年、池田勇人内閣の下で所得倍増計画が策定され、1964年の東京オリンピックを目前に控えた高揚感に満ちていた時代の幕開けとなります。

 

住宅供給では、1963年頃の新聞に「6つの公団入居に8万人が応募」と紹介されています。このことから当時はすでに住宅難だったことが分かります。1962年頃からの第一次マンションブームは、供給に希少性が感じられる時代のできごとでした。

 

1964年に民間から分譲された東京表参道のコープオリンピアは、分譲価格3000万円から1億円の「高級分譲マンション」で、東京都心部に高い利便性を求めた新しい暮らし方を提案したものであり、まだ庶民向けの住宅ではなかったようです。しかし、いざなぎ景気の黎明期である1965年頃から少しずつ潮流に変化が見られます。

 

日本で最初のニュータウンとされた大阪・千里ニュータウンの建設が、1964年に本格的に始まり、多摩ニュータウンも1966年から建設が開始されています。この頃、カー(車)、カラーテレビ、クーラーの頭文字をとった3C、いわゆる新・三種の神器が流行語となっているように、マイカーの普及と団地の郊外化の時代が重なります。

 

一方、既成市街地にあった工場もまた規模拡張や公害問題対策として郊外に移転しはじめ、その跡地を利用した大規模な団地が計画されます。東京の大島六丁目団地や豊島五丁目団地、大阪の住吉団地など、10階建てを超える高層団地が都市居住として出現しはじめたのもこの頃です。つまり、住宅の郊外化・高層化による大量供給の幕開けです。

大衆化路線へと変わった「第二次マンションブーム」

一方で、集団就職の象徴とされる「青森発上野行き臨時夜行列車」が1954年から1975年まで運行されているように、依然、地方から都市への人口流入が続いていることに加え、1968年の総理府調査で「かぎっ子の実態と対策に関する研究」との名称が使われているように、まさに一世帯一住宅・核家族化が進んでおり、住宅需要も、より一層の高まりを見せていた時代でした。

 

1969年の毎日新聞の記事には「『マンションは、いまや高嶺の花ではなくなった』というキャッチフレーズの中身をもう一度考えてみよう」というくだりがあります。

 

民間の分譲マンションは高級路線から大衆化路線へと移り変わり、400万円から600万円台のものが多くなったようです。交通の便がよく分譲価格が手ごろになって、都心郊外で一戸建てに代わる居住形態として人気となっていきました。

 

1968~69年の第二次マンションブームは、庶民向け住宅の大量供給に裏打ちされた潮流だったのです。

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    本連載は、2014年3月20日刊行の書籍『なぜ新築マンションには自然素材が使われないのか』から抜粋したものです。その後の法制改正等、最新の内容には対応していない可能性もございますので、あらかじめご了承ください。

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