本連載は、社会保険労務士・吉田卓生氏の著書、『Q&A院長先生の労務管理』(中央経済社)の中から一部を抜粋し、院長先生が行うべき職員の人事労務管理について、その基本となる考え方と、給与・賞与面での具体的な対応ポイントをご紹介します。

他業種にはない労務トラブルが発生する医療機関

インターネットが普及し、誰でも労務に関する情報を簡単に得られるようになりました。近年、医療業界においても、職場に不満を持った職員が情報を得て、1人でも加入できる労働組合や労働基準監督署に駆け込む、といった労務トラブルが多発しています。

 

医療機関の職員については、他の業種ではあまり見られない、次のような特徴もあります。

 

●同僚や友人知人と給与明細を見せ合うなど労働条件を詳細に比較し、自分の待遇が悪いと、比較的抵抗なく不平不満を訴え、権利を主張し、改善を要求してくる。

 

●本人の利益もさることながら、不正を行っているのではないか、といった正義感から声をあげてくる。

 

看護師などの有資格者の場合は、特にそういった傾向が強いように思います。気の強いベテラン職員などを刺激してしまった場合には、他の職員を扇動し、結託して、院長先生対全職員といった構図になるという最悪の状況を招いてしまうこともあります。そして、対応がよくない場合、労働紛争に発展します。

労働者の権利は使用者に比べて厚く保護されている

院長先生ご自身は、有給休暇など使う余地もなく、長時間の拘束、サービス残業などはあたりまえといった、過酷な労働環境で勤務なさってきたことと存じます。

 

開業すれば、人を雇う立場になります。雇われた人が、先生のように働いてくれるとは限りません。とはいえ、開業時には開設場所の選定、建物の設計、借入金の検討など、ほかにやることがあまりにも多く、結果として、労務管理について認識することもなく使用者となってしまうことも少なくありません。

 

労働基準法をはじめとする法令においては、労働者の権利は使用者に比べ大きく、また、厚く保護されています。たとえ院長先生が知らなかったといっても法律の規定には逆らえません。争うこととなれば、使用者側は不利です。トラブルが表面化した場合、多くはお金で解決することとなります。

 

小規模な事業所であるクリニックでは労務リスクへの対策が遅れています。なかには、先代が開業した当時の仕組みでやっているというクリニックもあります。

 

正直なところ、職員との信頼関係さえしっかり維持されていれば、トラブルは起きないのかもしれません。しかし昨今の労働関係法規は、頻繁に改正されており、その対応といった意味でも、労務管理はますます重要になってくるものと予想されます。

クリニックの経営すら揺るがす人事労務のトラブル

院長が、診療所内外でくすぶる人事労務の問題を、仕事が忙しいので対応できなかった。また、院長自身が、本来すべき人事労務管理をどうしたらよいかわからず、そのままにしておいた。このような言い訳や放置が、その後クリニックと院長自身にとって大きな痛手となる、人事労務トラブルを引き起こしてしまうことがよくあります。

 

これらのトラブルは本来、職場をあずかる院長が、人事労務管理の知識をもって、早期に予防・対処していれば、大事にならずにすんでいたと思います。

 

以下は、院長の人事労務管理に関する知識の不足や人事労務管理の実践を怠ったことによって生じた、人事労務トラブルの実例です。クリニックにおいて、このようなトラブルが発生すると、クリニック経営を揺るがすような事態や大きな損失につながってしまいます。

 

事例1 パワハラ不当解雇

職員が仕事でミスを繰り返すので感情的になり、「明日からクリニックに来なくていい」と言ってしまった。職員は翌日から出勤しなくなり、その後、個人加盟の労働組合(ユニオン)から団体交渉を申し込まれた。

 

●トラブルの内容とその結果

Xユニオンから、院長のパワハラによる不当解雇だと、団体交渉を申し込まれ、不就労部分の賃金100%と慰謝料を含む多額の解決金を支払うことになってしまった。院長が団体交渉や相手方弁護士との対応に追われ、クリニックとして大きな負のコストが発生してしまった。結局、職員は退職したが、職場の雰囲気は最悪。院長自身も大きく評価を下げてしまった。

 

事例2 残業不払い請求

職員が自己都合で退職願いを提出し、有給休暇の消化に入ったとたん、過去2年分の残業代の不払い請求を、内容証明郵便でクリニックに送りつけてきた。同時に労働基準監督署にも申告された。

 

●トラブルの内容とその結果

労働基準監督署から是正勧告を受けたので、社会保険労務士が調査したところ、院長が時間外勤務の管理を怠っていたため、不払いの残業代が発生していることがわかった。2年間にわたる残業代の未払い金(約200万円)を支払うことになってしまった。

 

事例3 うつ病の発症

仕事が忙しく、人手が足りなかったため、職員に月80時間を超える残業を、半年間させてしまった。職員は、疲労とストレスから、うつ病を発症してしまい、クリニック就業規則により休職となった。

 

●トラブルの内容とその結果

院長は、うすうす職員の調子が変だと感じつつも、長時間残業を継続させてしまった。病院では、「うつ病」と診断されたが、労災認定はされなかった。休職期間の満了が近づいたその時、家族から労災であるとクリニックに詰め寄られた。職員の家族を巻き込んだ、最悪の事態に発展してしまった。

 

事例4 職員のやる気の低下

人事評価(賞与評価)の結果を適切にフィードバックできなかったために、職員のやる気を著しく低下させてしまった。

 

●トラブルの内容とその結果

賞与評価において、他の職員より低い評価とされた。なぜ、そのように取り扱われたのか、職員の求めに対し、院長が説明できなかったために、職員のやる気を著しく低下させ、信頼関係も壊してしまった。職員の仕事ぶりは以前と比べると明らかに質・量ともに落ちてしまった。

 

事例5 新入職員の退職

新卒で採用したばかりの職員から、クリニックの給与のしくみ(どのように頑張ったら昇給するのか)について聞かれたが、院長はよくわからなかったため、「それは会計事務所が決めたこと、直接聞いてくれ」と発言したら、職員が辞表を提出してきた。

 

●トラブルの内容とその結果

クリニックの給与体系や昇給のしくみを、院長として説明ができず、他人事のように言ってしまった。職員は院長への不信とこのクリニックで働く希望を失い、退職してしまった。採用には多額のコストを投入した。また、優秀な新入職員で将来を見込んでいただけに、クリニックにとってはコスト以上の痛手であった。

本連載は、2012年8月10日刊行の書籍『Q&A院長先生の労務管理』から抜粋したものです。その後の労働法令改正等、最新の内容には対応していない可能性もございますので、あらかじめご了承ください。

Q&A院長先生の労務管理

Q&A院長先生の労務管理

吉田 卓生,税理士法人ブレインパートナー

中央経済社

忙しい院長は不満を持つ職員、問題職員への対応が後手に回りがちかもしれませんが、職員のやる気を引き出し、能力を向上させるためにも、人事労務管理はとても重要です。本書では、勤務態度、メンタルヘルス、給料や休暇など実…

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