前回は、創作時期で価格が異なるゴッホの絵を紹介しました。今回は、アルル移住後のゴッホの生活を見ていきます。

理想郷に画家たちのコミュニティを作ろうとしたゴッホ

いずれにせよ、ゴッホが絵の修業を始めてから、短期間でめきめきとその表現力を上げていったことは疑いありません。若くして亡くなったために、ゴッホは死ぬ直前の2年半が画家としてのピークになりました。その始まりがアルルへの移住です。アルルでの生活は、画家ゴッホに豊かなインスピレーションをもたらしました。

 

しかし、アルルへの移住はゴッホの芸術的才能を大きく伸ばしましたが、私生活の面では必ずしも良いことばかりではありませんでした。

 

理想郷アルルに画家のコミュニティをつくりたいと考えたゴッホは、パリで知り合った画家たちに手紙を送りますが、そのほとんどに断られてしまいます。

 

ようやく応じてくれたゴーギャンは、既に北フランスにポン=タヴァンという居場所を持っていて、ゴッホの呼びかけに応えたのはゴッホの弟である画商テオが生活費を保証してくれるという話があったからでした。

 

ゴッホより5歳年上でしたが、ゴッホよりも遅く35歳から画家を目指したゴーギャンは、その売れなさではゴッホにひけを取らず、常に困窮していたのです。

 

ゴーギャンがアルルに着いたのは1888年10月のことでした。彼は『ひまわり』の絵を描いて家を飾ったり、ゴーギャンとその後に来るであろう画家たちのために椅子を12脚買ったりして来訪を待ちわびていました。

ぶつかり続けたゴッホとゴーギャン、そしてあの事件へ

しかし、ようやくやって来たゴーギャンとの生活は、ゴッホが夢見たようなものにはなりませんでした。お互いに個性の強い芸術家であるゴッホとゴーギャンは、ことあるごとにぶつかってストレスをためていったのです。

 

そして、わずか2カ月後の12月23日、有名な耳切り事件が起こります。ゴッホがなぜ自分の片方の耳たぶを切り落とすに至ったのか、確かなことはわかっていません。いつものように軽い諍いがあったために外泊したゴーギャンが、翌朝家に戻ると、耳を切って血だらけのゴッホが倒れていたというのです。

 

新聞の報道によれば、ゴッホはその晩、切り取った耳を顔馴染みの売春婦に渡したということですが、ゴッホ自身は何も語っていません。翌日、ゴーギャンはテオに電報を打ってアルルに呼び寄せ、ゴッホの入院中にテオと一緒にパリに帰ります。

 

病院に収容されたゴッホは、以後二度とゴーギャンに会うことはありませんでしたが、その後も二人の文通は続いたといいます。喧嘩はしても、お互いの実力は認め合っていたのです。

 

耳切り事件の後、耳に包帯を巻いたゴッホは自画像を2枚描いています。片方はパイプをくわえた非常に有名なもので、もう片方は背景に浮世絵が貼ってあります。どちらも、それまでに描かれたゴッホの自画像に比べて急激に老けてしまったように見えます。実際、相当な精神的負荷がかかっていたのでしょう。

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