前回は、ゴッホの『ひまわり』と日本との浅からぬ因縁を紹介しました。今回は、ゴッホが芸術家としてどんな人生を歩んだのかを見ていきます。

精神病院退院後に描いた『医師ガシェの肖像』

前回の続きです。

 

『医師ガシェの肖像』は、耳切り事件でゴーギャンと別れて精神病院に収容されたゴッホが、退院後に頼りにした主治医を描いたものです。ガシェは美術愛好家でピサロやセザンヌとも親しかったために、ゴッホの主治医として適当だと思われていました。しかし、この肖像画を描いた1カ月後、ゴッホはピストルで自らを撃って死んでしまいます。わずか37年の生涯でした。

 

『医師ガシェの肖像』にも二つのバージョンがあります。ゴッホは1枚をガシェに寄贈し、1枚を手元に残しました。1990年のオークションで落札されたのはゴッホが所有していたほうで、もう1枚はガシェの死後にフランス政府に寄贈され、現在はオルセー美術館に飾られています。

 

『ひまわり』も『医師ガシェの肖像』も、太い筆で短い線をたくさん置いていくような、ゴッホ独特のタッチが冴えた名作です。また、どちらも対象物がまっすぐではなく、うねるようなよじれるような描写で、独特の味わいがあります。

 

ゴッホは実物を見ながらでなければ絵を描けない画家でしたが、描かれたものはゴッホ独特の強烈なフィルターを通した描写になっています。それは作品が、ゴッホの内面の表出になっていたからです。

上層階級に生まれ、豊かな教養も身に付けていたゴッホ

ゴッホは、私たちの考えるいわゆる〝芸術家〞の要素を数多く兼ね備えています。

 

たとえば、ゴッホは幼い頃から思い込みが強く、かんしゃく持ちで、小学校を途中でやめさせられています。その後入った私立の寄宿学校も中退しています。

 

それを許すだけの家庭環境もありました。ゴッホは父も祖父も牧師で、一族には大臣や外交官もいる上層階級でした。当時の牧師は、現代日本でいうなら医者か大学教授に匹敵するエリートです。

 

ゴッホは学歴こそありませんが、家庭で教養を身につけ、母国語であるオランダ語のほかに英語やフランス語も習得し、文学作品にも通じていました。

 

ゴッホの家は祖父、父と牧師の続く家系でしたが、絵画にも通じていました。ゴッホの父には男の兄弟が4人いましたが、一人が海軍の将官になったほか、残りの3人は画商として成功したからです。

 

その縁で、1869年に16歳になったゴッホは、大手画廊のグーピル商会で画商として働くことになります。これは親族会議で、学業に向かないならば早くから働かせたほうがいいだろうと決まったからです。グーピル商会は、ゴッホの伯父の一人が株主兼経営陣として参加している会社でした。

 

画商としてのゴッホは真面目で優秀な社員でした。絵が好きなゴッホにとって画商は最高の職場だったのです。1873年には、ゴッホの最愛の弟テオもグーピル商会に入社します。当時20歳のゴッホは、「同じ会社で働けて、とてもうれしい」とテオへの手紙に書いています。この頃から二人の文通が始まり、それはゴッホが37歳で亡くなるまで17年にわたって続きました。

 

ところが、その幸せは長くは続きませんでした。きっかけはゴッホの失恋です。当時、ロンドン支店に勤めていたゴッホは、下宿の娘に熱烈に恋をした結果、手ひどく振られて自暴自棄になります。

 

思い込みの強いゴッホが激しく失恋した結果、人生のすべてが色褪せて見えるようになります。あれほど好きだった画商の仕事も、安く仕入れて高く売る「人を騙す仕事」、自分の好きでない絵でも売らねばならない「くだらない仕事」であると感じて、あっというまに不良社員に転落しました。

「値段」で読み解く 魅惑のフランス近代絵画

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髙橋 芳郎

幻冬舎メディアコンサルティング

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