悩ましい日本語㉒ おいらく【老いらく】〔名〕

今回は、「おいらく【老いらく】」を解説します。※本連載は、元小学館辞典編集部編集長で、辞書編集者として多数の辞書作りに携わってきた神永曉氏の著書、『さらに悩ましい国語辞典』(時事通信出版局)の中から一部を抜粋し、変化し続ける「ことばの深さ」をお伝えします。

年をとり老いてゆくの意味「老ゆらく」が変化

おいらく【老いらく】〔名〕

 

老後の安らぎは「老い楽」?

 

ある落語家が不倫の現場を写真週刊誌に撮られ、その謝罪の記者会見で自分の名にかけて「老いらくの恋」と言ったことがあった。だが、そのことに関して何か意見を述べようということではない。「老いらく」というのはけっこう面白いことばなので取り上げてみたいのである。

 

「老いらく」は、文法的に説明すれば「老いる」の文語形「老ゆ」のク語法である「おゆらく」が変化した語ということになる。ク語法とは、活用語の語尾に「く」が付いて全体が名詞化されるもので、「言はく(= 言うこと。言うことには)」「語らく(= 語ること。語ることには)」「悲しけく(= 悲しいこと)」などの語がそれである。

 

「老いらく」は、年をとり老いてゆくことや老年という意味である。古くからある語で、たとえば平安初期に成立した最初の勅撰和歌集『古今和歌集』には、在原業平の以下のような和歌が収められている。

 

「桜花ちりかひくもれおいらくのこむといふなる道まがふがに」(賀・三四九)

 

桜の花よ、散り乱れてあたりを曇らせよ。老いがやって来るという道が(花で隠されて)わからなくなるように、といった意味である。詞書によれば、藤原基経の四十の賀の宴で詠んだ歌とある。基経は最初の関白となった平安前期の公卿である。さりげなく慶賀の気持ちを込めた名歌であろう。

 

この「老いらく」がのちに「らく」を「楽」と解され、「老い楽」の字を当てて、年をとってから安楽な生活に入ることや老後の安楽といった意味になる。

江戸期~近代になってもかなり見られる「老い楽」の例

『日本国語大辞典』によれば、キリシタン宣教師の日本語修得のためにイエズス会が刊行した辞書『日葡辞書(にっぽじしょ)』(1603〜04年)に「Voiracu(ヲイラク)」があり、ポルトガル語の部分を日本語に翻訳すると、「歌語、すなわち、老いの楽しみ」と書かれている。つまりけっこう古くから「老い楽」と思われていたことがわかる。以後「老い楽」の例は、江戸期から近代になってもかなり見られるようになる。

 

ちなみに冒頭の落語家が言った「老いらくの恋」という語は、1948(昭和23)年、当時68歳だった歌人の川田順が弟子の女性と恋愛をして家出し、「墓場に近き老いらくの、恋は怖るる何ものもなし」と詠んだことから広まったものである。この場合の「老いらく」は「老い楽」でないことは言うまでもないであろう。

 

□揺れる読み方

 

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連載日本語の不思議~『さらに悩ましい国語辞典』より

辞書編集者
元小学館辞典編集部編集長

1956年、千葉県生まれ。小学館に入社後、37年間ほぼ辞書編集一筋の編集者人生を送る。
担当した主な辞典は『日本国語大辞典 第二版』『現代国語例解辞典』『使い方のわかる類語例解辞典』『標準語引き日本方言辞典』『例解学習国語辞典』『日本語便利辞典』『美しい日本語の辞典』など多数。著書として『悩ましい国語辞典』(時事通信社)。
NPO法人「こども・ことば研究所」を共同設立し、「辞書引き学習」を中心とした活動で全国行脚している。

著者紹介

さらに悩ましい国語辞典

さらに悩ましい国語辞典

神永 曉

時事通信出版局

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