今回は、「あてじ【当て字・宛字】」を解説します。※本連載は、元小学館辞典編集部編集長で、辞書編集者として多数の辞書作りに携わってきた神永曉氏の著書、『さらに悩ましい国語辞典』(時事通信出版局)の中から一部を抜粋し、変化し続ける「ことばの深さ」をお伝えします。

「野暮」から「夜露死苦」まで、当て字を集めた辞書

あてじ【当て字・宛字】〔名〕

 

「太田道灌」と書いて何と読ませる?

 

漢字本来の意味には何の関係もない、その漢字の音や訓だけを借りて、ある語の表記にすることを「当て字」と言う。『日本国語大辞典』はその例として、「浅増」「目出度」「矢張」「野暮」を挙げている。また、外国地名を「亜細亜」「仏蘭西」などと書いたり、外来語を「珈琲」などと書いたりすることもあるが、これらもすべて当て字である。さらに、「五月雨」「紅葉」のように和語を二字以上の漢字で表記するもの(「熟字訓」とも言う)も当て字とすることが多い。

 

このような当て字だけを集めた、とてもユニークな辞典があることをご存じだろうか。『当て字・当て読み漢字表現辞典』(笹原宏之編、三省堂、2010年)という辞典で、よくぞこれだけ当て字を集めたものだと感心させられる内容のものである。掲載された実例の範囲は、古典文学や近代小説はもとより、漫画、広告、放送、歌詞、Webと実に多岐にわたっている。だから「夜露死苦」などという表記もちゃんと載っている。

 

この辞典には普通の辞典では知ることができない自由な発想による漢字表現が数多く載っていて、私の愛読書のひとつなのである。

「太田道灌」にまつわる故事と当て字

たとえば「太田道灌」と書いて、それを何と読ませているかおわかりだろうか。普通に読めば「おおたどうかん」だが、もちろんそうではない。この辞書によれば坪内逍遙の小説『当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)』(1885〜86年刊)に出てくるというので、実際に小説の本文に当たってみた。こんな内容である。

 

「談話(はなし)なかばへ階子段(はしごだん)を登って来たるは、これもまた二十三四の書生(しょせい)にて、〈中略〉、六七度(ろくしちたび)太田道灌に出逢ったと見えて、胴と縁(ふち)との縁(えん)がきれて放れさうになった古帽子を、故意(わざ)と横さまに被りながら、肩をいからしてあがって来(きた)り」もちろん、書生が実際に太田道灌と出会ったわけでないことは、この文章からもおわかりであろう。

 

まるで判じ物のようだが、答えは「にわかあめ」である。この書生は、にわか雨に数回あったために、つばが取れかかってしまった古帽子を被っていたというわけである。この答えを聞いて、落語ファンだったら「あれか!」と思ったかもしれない。そう、落語の「道灌」で知られる故事によった読みなのである。

 

太田道灌は、江戸城のもとを築いたことで有名な室町中期の武将である。坪内逍遙が落語から直接発想したのかどうかは不明だが、その故事とは以下のような内容である。

 

道灌が狩りに出かけてにわか雨にあったため、土地の娘に蓑笠を所望したところ、娘は山吹の枝を差し出したので、道灌は花を所望したわけではないと怒って帰ってしまう。だがのちに、娘が山吹の枝を差し出したのは、「七重八重 花は咲けども 山吹の みの一つだに なきぞ悲しき」という古歌(『後拾遺集』所収)の意だったと知り、おのれの無学を恥じて歌道に志したという。

 

この歌は「みの一つだになきぞ悲しき(=実の一つも付かないのは奇妙なことだ)」の「み(実)」に「み(蓑)」を掛けて、雨具のないことをそれとなく示しているのである。道灌のこの故事は、湯浅常山という岡山藩に仕えた儒学者が江戸時代中期に書いた随筆『常山紀談』に出てくる。

 

こうなってくると、当て字の中にはけっこう奥の深いものもあることがわかる。『当て字・当て読み漢字表現辞典』は愛読書だと書いたが、辞書編集者としては、よくぞこのような面白い辞書を編纂したと思う半面、そのユニークな発想に嫉妬心すら覚える辞書である。

 

□方言・俗語

 

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